【熊本城を巡る歴史旅】実は豊臣秀吉の親戚!?加藤清正と熊本城の関係
現在の熊本県熊本市中央区に築かれた「熊本城」。
安土桃山時代に築城の名手として知られる加藤清正によって築城され別名「銀杏城」ともいわれる名城です。2016年の熊本地震に被災し現在、修復作業が行われています。
今回は、熊本城に関する歴史や熊本の観光スポットをご紹介!
この記事の目次
熊本城について
熊本城は、東京ドームの約21倍の敷地面積を誇る名城です。藤堂高虎とともに築城の名手とされた加藤清正が建てました。
そんな加藤清正は、もともと豊臣秀吉の小姓でした。1583年の賤ヶ岳の戦いにて、「七本槍」のひとりに数えられる活躍で頭角を現しはじめます。
関ケ原の戦いでは、徳川方につきますが、秀吉の遺児、秀頼のために働き、熊本城には秀頼をかくまうための部屋が作られていたとも言われています。
熊本城が立地する場所は、茶臼山丘陵と呼ばれる場所です。茶臼山丘陵には、もともと鹿子木氏が築いた隈本城が存在しましたが、普請します。
熊本城の最大の特徴は、西南戦争で西郷隆盛もうならせた石垣。この石垣は、加藤清正の率いた石工集団、「穴太衆」の手掛けたものとされています。
熊本城の歴史的背景
熊本城は、1601年から7年をかけて加藤清正が築城しました。いまでこそ、その城郭は評価され、多くの人に愛されますが、そこに至るまで、多くの人々がかかわってきました。
その歴史の変遷を追っていきましょう!
室町時代~佐々成政の時代
室町時代から肥後(現在の熊本県)の守護職を世襲してきた菊池氏が衰退した結果、戦国時代には、阿蘇・名和・相良氏といった有力な国衆と菊池氏の旧家臣団が割拠し、そこに隣国の大友氏や龍造寺氏、島津氏が進出するというモザイク状の勢力図が描かれました。
1580年代に入ると、天下統一を目指す豊臣秀吉の軍勢が九州へ出陣。圧倒的な軍勢に、その当時勢力を伸ばしていた島津氏は降伏。秀吉の命によって佐々成政に肥後を与えました。
しかし、佐々成政の肥後守護はうまくいかなかったそうです。その原因は、「肥後国衆一揆」が起こったことでした。豊臣秀吉は激怒し、上洛した成政をそのまま切腹させてしまいます。
築城の名手、加藤清正の時代
混乱がおさまった天正16年秀吉は新たな領主を肥後に送ります。築城の名手、加藤清正と、小西行長です。
秀吉の朝鮮出兵の拠点ともなった熊本で加藤清正は朝鮮出兵の際に、重要な役割を果たします。その後、秀吉が亡くなり、関ケ原の戦いを経て徳川の世へと移り変わっていきました。
加藤清正が、熊本城を築城しはじめたのは、1601年のこと。その理由は、秀吉死後の権力闘争に伴う大規模な戦乱が予測されることを踏まえて築城に着手したとも言われています。
そんな加藤清正ですが、1611年5月二条城で行われた秀頼と家康の会見に立ち会い、熊本城への帰りの船で清正は突如発病し、帰らぬ人になってしまったと残されています。
細川家の時代
加藤清正に変わり加藤忠弘が改易されたため、細川家3代の細川忠利が熊本城に入ります。1632年には、熊本城に入城した細川忠利が「江戸のほかにこれほど広い城は見た事が無い」と書き残すほどの規模だったそうです。
熊本城にゆかりのある人物
熊本城の歴史を追ってしきました。そこで出てきた重要な役割を果たした2 名について詳しくみていきたいと思います。
賢いし能力はあるのに違う方向に使ってしまった天才 佐々成政
佐々成政の父は、尾張国春日井郡比良(現在の名古屋市西区)の比良城主である佐々成宗(佐々盛政)です。もともと織田信長の家臣でした。
兄弟が多かったのですが、線上にて戦死し、成政が家督を継ぐこととなり、、1560年に比良城主となります。
成政は、織田信長に仕え直属の親衛隊である馬廻となり頭角を現したとされます。その功績から、馬廻の中でもエリートの証である黒母衣衆(そのほかには、滝川一益、前田利家、服部小平太、毛利新助)に抜擢されました。
その後、目覚ましい活躍で、20年後の1581年2月には、成政は正式に越中半国を与えられ、1582年に神保長住が失脚すると越中一国の主となり、富山城を本拠として大規模な改修をおこなうことになります。
柴田勝家とともに、上杉景勝の防衛拠点である魚津城を3ヶ月の攻囲の末に攻略し、あと少しで上杉景勝の居城、春日山城に迫る勢いでしたが、本能寺の変により状況が一変。
清洲会議にて柴田勝家と羽柴秀吉との対立が起きた際には、柴田勝家の見方味方をします。
賤ヶ岳の戦いとなった際には、成政は上杉景勝への備えの為、富山城から動けず、援軍のみを送ったのだとか。柴田勝家が敗北し、成政も豊臣秀吉に人質を送り傘下に入りました。
おとなしく秀吉に仕えたと思われた矢先、なんとこの後とんでもない事件を起こします。富山の役です。
1584年、羽柴秀吉と徳川家康の間での合戦である小牧・長久手の戦いが起こると、当初、羽柴秀吉に味方する姿勢であった佐々成政。なんとこっそり軍を抜け出し、前田利家領内である能登・末森城を奇襲してしまったのです。
その後、様々な方面から攻められ、結局秀吉が、10万の大軍を率いて、自ら越中に進軍し富山城を大軍で包囲。佐々成政は織田信雄の仲介を受けて降伏しました。
そんなことを起こしてしまったわけですから、もちろん領地を没収!妻子と共に大坂城下に移住することになります。
そんな波乱万丈人生、成政ですが、1587年九州征伐が開始されると、成政は羽柴秀長軍に属して豊後府内(大分市)・日向を経て薩摩へ進軍します。
九州の雄である島津義久は、弟・島津義弘に家督を譲り、佐々成政らの取りなしで豊臣秀吉に拝謁して降伏しました。
これらの功により佐々成政は肥後一国を与えられ、隈本城(後の古城)の普請を開始することになります。
どのへんがそんなにすごいのか?加藤清正
1562年6月24日、尾張国愛知郡中村村(現在の名古屋市中村区)で生まれました。父は刀鍛冶の加藤清忠、母は鍛冶屋清兵衛の娘・伊都。2歳で父を亡くし、
羽柴秀吉の生母である大政所と、母・伊都は従姉妹であったことから、加藤清正は1573年、近江・長浜城主となったばかりの羽柴秀吉の小姓として、福島市松(のちの福島正則)らととも仕えました。
長浜城と豊臣秀吉の歴史はこちら▶▶
豊臣秀吉の長浜城に日本最古の鉄道駅舎 長浜で日本の歴史を巡る旅
その後、秀吉の数少ない親戚として、数々の功績をあげ、有名なある一人になります。
それは1583年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いにて。太刀や槍を片手に柴田勢に突撃し、敵将・山路正国、鉄砲頭・戸波隼人を討ち取り、羽柴秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の1人として称されました。
3000石の所領を与えられました。 ※賤ヶ岳の七本槍(福島正則、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元)
1586年からの九州征伐にも従い、肥後国主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国195000石を与えられ、加藤清正は熊本城(隈本城)を居城とし5500石余りの侍大将から大出世することになります。
なんとその歳わずか28歳のことでした!
熊本の観光スポット
熊本城を築城した加藤清正ゆかりの地めぐりのスポットをご紹介!
加藤清正像
熊本城そばの加藤清正像。
熊本城に行く際にはぜひ立ち寄りたいですね!
住所:熊本市中央区花畑
加藤神社
加藤清正を祀る神社です。
加藤神社からは、熊本城を見ることができます!絶好の撮影スポットとしても有名ですよ。
住所:熊本市中央区本丸2-1
営業時間:8:00~17:00
旧細川刑部邸
熊本城の敷地内に、「旧細川刑部邸」があります。全国有数の上級武家屋敷です。唐破風がついた玄関など豪華絢爛な様子がわかります。
現在は、震災の影響で閉園中ですが、2018年11月23日(金・祝)から12月2日(日)の10日間、8時30分~20時の間で、期間限定で庭園が一般公開されます。
手入れされた44本余りのイロハモミジが色付き、ライトアップされた様子は圧巻です!
住所:熊本県熊本市中央区古京町3-1
営業時間:8:30~20:00
熊本の主なグルメスポット
熊本城下町周辺
熊本名物の「辛子蓮根」
熊本を代表する郷土料理、「からしれんこん」。しゃきしゃきとしたレンコンの食感と、つんと鼻に抜けるからしみその辛さ。主に酒のさかなとして、熊本県内で広く親しまれている食べ物です!麦みそに和からしを混ぜた“からしみそ”をレンコンの穴に詰め、黄色い衣を付けて油で揚げるその姿はとてもかわいらしいですよね!
なんとその発祥はとても優しく、江戸時代、病弱だった初代熊本藩主・細川忠利公の滋養強壮食として考案されたそうです。
細川藩の料理人を務めていたのが、「森からし蓮根」の始祖である森平五郎。明治時代に入り、その子孫がからしれんこんの製造販売を始めました。その独特の製法は口伝で継承されており、現在は18代目が伝統の味を受け継いでいます!
住所:熊本県熊本市中央区新町2丁目12-32
営業時間:8:00~17:00
アクセス:JR鹿児島本線 上熊本駅前から熊本市電B系統で約5分の新町電停で下車、徒歩すぐ
熊本のおすすめ観光コース
まずは熊本城を散策してみましょう!
熊本城へは、熊本駅から周遊バスで向かいます。
まずは長塀通りから現存する城郭の塀の中で日本一の長さを誇る熊本城の長塀を見学します!熊本市役所から行幸坂まで続く坪井川沿いの遊歩道「長塀通り」から見る長塀と馬具櫓はとても迫力がありました。
震災で石垣が崩れているため、城彩苑から二の丸へ向かう歩道で、未申櫓から元太鼓櫓を見学します!
二の丸広場からは、西大手門、戌亥櫓。その向こうに宇土櫓と大・小天守閣を見ることができます。
続いて加藤神社へ。ここからは復元作業で、まるで宙に浮く熊本城を見ることができます!なんだかサグラダファミリアを思い出しました。
さて、熊本城や加藤神社を観光した後は、城下町を散策します!
加藤清正が熊本城を築城して約400年、その際に一緒に造られた城下町が新町・古町地区です。熊本城と熊本駅の間に位置し、現在も当時の面影を残します!
新町地区は、熊本城の正面にあり、5つの城門に囲まれた城内町。
短冊状の町割りで、武家屋敷と町人町とが混在する、全国でも珍しい町でした。
古町地区は、火事による延焼を食い止めたり、軍事拠点として碁盤目状の中心に寺を配置した「一町一寺」の町割りが特徴です。
この町は、坪井川の荷揚げ場を持つ問屋が軒を連ね、物流の拠点としても発展しました。
西南戦争以降に復興した400軒あまりの「町屋」が並びます。
さらに名石工「明八橋」も見逃せません。
この明八橋、日本橋などを手掛けた橋本勘五郎が1875年の明治8年に架設しました。坪井川を挟む新町と古町を掛ける橋です。
伝統工芸である「肥後像がん」。金属、陶磁、木材などの表面を彫って他の材料(金、銀、貝など)を埋込む技法です。その歴史は江戸時代に遡り、武家文化の精神である“奥ゆかしい美しさ”を表す重厚感漂う金属工芸は、武士たちの刀の鍔(つば)や火縄銃の銃身などに施されています。肥後像がんの老舗が城下町にはあります。
明治7年創業の肥後象嵌の老舗である「肥後象嵌光助」
肥後象嵌 光助
住所: 熊本県熊本市中央区新町3-2-1
TEL: 096-324-4488
営業時間:9:00~17:00
土日祝 10:00~16:00
店休日: なし(年末年始は休み)
駐車場: コインパーキング(代金は店負担)
交通アクセス: 市電「段山町」電停から徒歩5分
いかがでしたか?
ぜひ熊本の歴史旅をお楽しみください!
熊本にあるもう1つのお城、八代城
細川忠利が肥後・熊本藩54万石(鶴崎2万石を含む)として熊本城に入った際、徳川幕府の命で八代城には細川忠利の父・細川忠興(細川三斎)が入り、北の丸を隠居所としています。
当時一国一城令という制度があった江戸時代、なぜ現在の熊本県は熊本城と八代城の二つの城を持つことを許されたのでしょうか。
八代城に関する詳しい記事はこちら▶▶
熊本城と共に一国二城制を許された~八代城~歴史を紐解くぶらり旅
おススメの日本の城
熊本城の歴史旅をご紹介してきました。
HISTRIPでは、他にも沢山のお城を旅しています!その中のいくつかをHISTRIP編集部が独断と偏見で選んでご紹介させていただきます!
福島県会津若松:鶴ヶ城
幕末、戊辰戦争の舞台となった城、鶴ヶ城
鶴ヶ城に関する詳しい記事はこちら▶▶
三重県伊賀:伊賀上野城
忍びの里に建つ伊賀上野城
伊賀上野城に関する詳しい記事はこちら▶▶
藤堂高虎築城!高さ約30メートルの石垣を誇る三重県伊賀上野城へ
兵庫県朝来市:竹田城跡
日本のマチュピチュ竹田城
竹田城跡に関する詳しい記事はこちら▶▶
山城の郷~竹田城跡の縄張りと石垣で固められた曲輪の特徴に迫る
愛媛県大洲市:大洲城
暴れ川のほとりに立つ、大洲城
大洲城に関する詳しい記事はこちら▶▶
高知県高知市:高知城
石垣が美しい高知城
高知城に関する詳しい記事はこちら▶▶
南海の名城「高知城」 歴史に名を馳せる偉人が生きた土佐の江戸時代
長崎県島原市:島原城
破風の無い、シンプルで美しいお城!
島原城に関する詳しい記事はこちら▶▶
長崎の島原で歴史の足跡を辿る旅 風情溢れる城下町めぐりを満喫
熊本城の歴史旅は、いかがでしたか。
様々な人物が納めてきた熊本城と城下町。武将ひとりひとりの人生を想いながら散策すると、また違う風景が見えてきますね。
熊本城復元作業中ですが、天守閣の再建は、およそ20年をかけて城全体の再建を目指しているのだそうです。
今しか見れないこの風景を見に、訪れてみてはいかがでしょうか。”