真田のみちを散策しながら和歌山県九度山に残る真田家の足跡を辿る旅
今から約400年前和歌山県高野山へ配流を命じられた真田昌幸と幸村は、高野山での寒さが大変厳しかったことから九度山へと移り住みます。
その時に生まれた数々の伝説がいまも数多く残るのが「真田のみち」です。
今回は真田のみちを歩きながら、真田家の歴史や伝説の跡を辿ります。
この記事の目次
南海電車に乗って真田家ゆかりの地 九度山へ ~真田のみちまで~
南海高野線難波駅から電車に乗って、いざ真田家ゆかりの地「九度山」へ向かいます。
向かっている車窓から、山に霧がかかっているのが見え、幻想的な景色です。
田園風景を抜けて山間を進むにつれ、移りかわっていく車窓はすでに旅への入り口。
車窓からの景色を楽しみながら電車に揺られて約1時間、南海高野線九度山駅に到着です。
駅舎は「真田の赤備え」にちなんで赤色が取り入れています。
九度山に着いた瞬間から気持ちが高まりますね。
駅を出るとマップや標識の看板があり、それを確認して約5分まっすぐに行くと「真田のみち」に到着。
真田のみちには真田氏にまつわる史跡や建造物が並んでおり、先は高野山町石道へとつながっています。
真田の家紋 六文銭(ろくもんせん)や結び雁金(かりがね)の紋章がちりばめられているので、それを探しながら歩くといっそう楽しいですよ。
九度山にある小さな円墳 真田幸村が使った抜け穴と伝わる真田古墳
真田のみちを進んでいき、まずはじめにある真田ゆかりの史跡が真田古墳です。
4世紀に作られた横穴式石室をもつ円墳で、木の柵で覆われています。
中が暗くなっておりよく見えませんが、何だか不思議な雰囲気が漂う空間です。
あれ、古墳時代に真田氏?と疑問に思う方がいらっしゃるかもしれません。
実はこちらの古墳、別名「真田の抜け穴」と呼ばれています。
1614年に徳川家康が大坂追討を決めると、豊臣家は力を結集させようと各国の武将たちに密使を送りました。
その密使は幸村のところへと届き、この穴を通って戦いに出たのでしょうか。
かつてはつながっていたのだろうか、もしかしてここの近くに別の穴があるのでは、と想像してしまう夢のある伝説にワクワクしますね。
九度山 真田父子の屋敷跡に建てられた善名称院 (別名 真田庵)の伝説
真田古墳から道なりに約5分ほど歩くと、真田幸村父子の屋敷跡に建てられた善名称院、別名「真田庵」に到着します。
真田庵に入ってまず見つけたのが、「真田地主大権現」。
お寺が建てられた後、昌幸の霊がたびたび目撃されました。
そこで昌幸をこの地の大権現として祀ったところ、昌幸の霊が現れてこの地を守ると約束したと言われています。
約400年経った今も、昌幸は真田地主大権現としてこの地を守り続けているのです。
続けて境内の中を散策していると、敷地の真ん中辺りに句碑を見つけました。
「炬燵(こたつ)して語れ真田が冬の陣」
「かくれ住んで花に真田が謡かな」
江戸時代の俳人与謝蕪村が真田を詠んだ二句です。
九度山でひっそりと息をひそめて生活をしていた真田父子の切ない様子が伝わってきます。
横には井戸がありました。
こちらは幸村が住んでいたころに、この井戸に雷を封じたという伝説から「雷封じの井」と呼ばれています。
九度山で来るべき戦に向けて修行を重ねていた幸村の強さを表しているようです。
体感型ミュージアム 九度山 真田ミュージアムで真田家の歴史を辿る
最後に訪れたのは、真田庵から徒歩約2分の所にある真田ミュージアムです。
館内は「エントランス、上田時代、九度山時代、大坂の陣、九度山異聞、真田伝説、真田十勇士伝説、企画展示」の8つに分かれており、それぞれのテーマに合わせて展示物や映像などのコンテンツが豊富にある体感型ミュージアムとなっています。
エントランスでは甲冑姿の真田昌幸、幸村、大助がお出迎え。
幸村と大助は真田家の代名詞ともいえる「赤備え」の甲冑で迫力があります。
上田時代のブースでは、大きなパネルに真田家の歴史が史料や絵を交えつつ、わかりやすく解説されています。
その隣には不自由な生活の中での真田父子の暮らしを描いた九度山時代のブースがあり、有名な真田紐も展示されていました。
真田ミュージアムで波乱の人生を送った真田家の歴史をさまざまな角度から眺めてみませんか。
真田家の歴史、そして数々の伝説を辿る旅はいかがでしたか。
どの伝説にも九度山の人々が思う「真田家の強さ」が現れているように感じました。
ぜひ一度真田家が起こした奇跡とこれまでの軌跡を九度山で体感してみてください。