HISTRIP(ヒストリップ)|歴史的建造物に泊まろう

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歴史が色濃く残る伊豆・修善寺 歴史を味わう湯めぐりへ出かけよう

  • 静岡県伊豆半島で最も歴史があり、日本百名湯の一つとしても知られ親しまれている、修善寺温泉。
    実は、歴史があるのは温泉だけではないのです。今回は修善寺のお湯をめぐって、様々な表情を見せてくれるこの町の魅力をご紹介します。

    伊豆最古の温泉街修善寺 語り継がれる「独鈷の湯」と弘法大師の伝説

    修善寺温泉の中でもまず最初にご紹介したいのが、桂川に湧く修善寺温泉の起源ともいわれ、温泉街のシンボルでもある、「独鈷の湯(とっこのゆ)」。
    修善寺駅から東海バス「修善寺温泉」行き、修善寺温泉下車徒歩5分ほどの場所にあります。伊豆半島で最も古い温泉として語られていますが、独鈷の湯には名前の由来にもなっている、ある伝説が残されています
    桂川にある独鈷の湯

    今から約1200年も前の807年に空海こと弘法大師がこの地を訪れた際、桂川のほとりである一人の親孝行息子が、病に苦しむ父親をいたわって川の水で父の体を洗っていました。川の水はまだ冷たい季節で、それを見て気の毒に思った弘法大師は、仏具でもある「独鈷杵(とっこしょ)」で川の岩をつついて温泉を湧出させたと言い伝えられています。

    弘法大師がその親子に湧出た温泉に浸かるように勧めると、病に苦しんでいた父はたちまち元気を取り戻し、病が治ったといいます。その後、この噂が次第に広まり、「独鈷の湯」には庶民の温泉療養の場として沢山の人が訪れ、やがて町全体が湯治場として賑わいを見せるようになったそうです。
    弘法大師の「独鈷杵」は実際に独鈷の湯のすぐ近くにある修禅寺の裏山から出土していて、今は修禅寺境内にある宝物殿にて見ることができるそうです。
    独鈷杵を持っている弘法大師

    独鈷の湯は、今は足湯として人々の疲れを癒してくれています。あたたかい湯気に包まれ、川の流れる音を聞きながら、温泉街の雰囲気を体で感じてみてはいかがでしょうか?
    朝8時ごろが穴場で朝のお散歩がてらに立ち寄ると、足湯も景色もゆっくり楽しめると思います。

    日本でも珍しい!伊豆修禅寺は源泉かけ流し温泉で清めてからお参りを
    修禅寺境内の手水舎、「大師の湯」

    こちらも弘法大師ゆかりの地、修禅寺の境内にある「手水舎」。修禅寺は、独鈷の湯のすぐ側、向かいの通りにあります。
    湯めぐりと言っているのに、なぜお寺? なぜ手と口を清めるための手水舎?と思うかもしれませんが、こちらには「桂谷(けいこく)温泉 大師の湯」と書かれた額が掲げられています。その名の通り、龍の水口から出ているのは、なんと源泉かけ流し温泉なのです。
    手水舎のお湯からは湯気が出ている

    お参り前に温泉で手を清めてからお参りするのが修禅寺の習わしだそうです。この温泉は飲むことも出来るそうですよ。

    「桂谷」とはかつての地名で、弘法大師が若い頃、当時は桂谷山寺(けいこくさんじ)と呼んだこの地を、修行の場としたといいます。修禅寺は807年に真言宗のお寺として弘法大師によって創られました。弘法大師というと高野山を想像する方も多いと思いますが、修禅寺は高野山が出来る9年前も前に開かれました。修善寺を代表するお湯もお寺も、弘法大師ゆかりの名所になるのです。

    修善寺に来たら訪れたい 国登録有形文化財の宿 明治創業の新井旅館
    新井旅館の外観

    次に訪れた歴史ある名所は桂川のほとりにある「修善寺温泉 国の登録文化財の宿 新井旅館」です。修善寺温泉の中心街に位置し、独鈷の湯、修禅寺の程近くのところにあります。 1872年創業で、建物の歴史的価値が認められ、平成10年に国の登録文化材に指定されました。
    館内に飾ってある新井旅館のロゴ

    新井旅館には、明治後半~大正・昭和初期にかけて多くの文人墨客が訪れたといいます。というのも、三代目館主の相原寛太郎さんは日本画家を目指して現在の東京藝術大学に進学・卒業した方でしたが、二代目の娘の婿養子に入った寛太郎さんは、プロの画家を諦めることとなりました。

    そこで、画家への情熱が熱かった寛太郎さんはこの情熱を同じように画家や作家を目指す才能ある若い人たちに注ぎました。当時は才能があっても発揮できない人が多くいる時代でしたが、寛太郎さんはパトロンとして、当時はまだ有名でなく、お金もなかった彼らを支援したそうです。
    同じ趣味・趣向を持った人が集まり、お互いそこで話し合って、勉強できる空間があったといいます。
    今では名高い文人墨客が多く訪れていますが、もしここへ来ていなかったら名が埋もれていたかもしれないと考えると、寛太郎さん、そして新井旅館は日本の文学・芸術に大きな影響を与えた存在だったのだと思います。

    かつて文人たちも訪れた 修善寺の老舗旅館の温泉でくつろぎの一時を

    大きな丸柱が特徴の天平大浴堂新井旅館の15ある文化財のうちの一つがこちらのお風呂、「天平大浴堂」です。関わりのある文人墨客の中でも、一番親交が深かったという安田靫彦画伯によって設計されました。三代目の寛太郎さんが、「石柱を使った、ローマ風呂のような西洋風のお風呂が造りたい」と相談したところ、安田画伯は「歴史ある修善寺には、西洋風ではなくお寺のようなお風呂が良い」と言って、デザインしてくれたといいます。

    法隆寺に似ているという柱の組み方
    地元のお抱え大工さんが、わざわざ奈良の法隆寺へ行って釘を使わない柱の組み方を勉強して造ったため、法隆寺の組み方とよく似ているそうです。
    このお風呂のもう一つの特徴が、湯気で曇らないこと。これにも、法隆寺のお台所で使われている煙のとり方が取り入れられています。上部に空気の通り道を作ることによって、湿気が逃げるので曇らず、そして木を長持ちさせることができるそうです。
    コイが泳ぐ姿を見れる檜風呂
    注目していただきたいのが檜風呂。お湯の中の椅子に腰かけると、ちょうど目線の高さに、ガラス越しにコイが泳いでいる姿が目に飛び込んできます。
    作家の芥川龍之介は新井旅館に滞在していた際、このお風呂とは別の家族風呂でコイが泳ぐ姿をご覧になり、デッサンと共に、「新井旅館のお風呂は水族館のようなお風呂だよ」という内容の手紙を奥さんに送ったそうです。
    かつての文人墨客たちに思いを馳せて、芥川先生が「一見の価値あり」と言ったこのお風呂で安らぎのひと時を過ごしてみませんか?
    お湯をめぐってここまでご紹介してきましたが、いかがでしたか?
    湯の郷であり、宗教の郷であり、文学の郷でもある修善寺。
    長い歴史の中でつくられてきた修善寺の特殊な雰囲気を、ぜひ実際に足を運んで肌で体感してみませんか?