こんにちは!旅の情報メディア「HISTRIP」です。
今回は今なおファンの多い幕末の剣客集団、新撰組ゆかりの地紹介となります!
新選組の変遷に合わせてスポットを紹介していきますので、ぜひ最後までご視聴くださいませ!
【新撰組の結成】
将軍上洛の警護のために結成された浪士組は、京都に到着後分裂することになりました。
京都に残ったメンバーは「壬生浪士組」を結成、江戸に帰還したメンバーは「新徴組」を結成しました。
この「壬生浪士組」が後の「新撰組」となります。
壬生浪士組は京都守護職の松平容保から不逞浪士の取締りと市中警護を任されていました。
1863年、公武合体派が尊皇攘夷過激派を京都から追放するクーデターを起こします。
これを八月十八日の政変と言います。
壬生浪士組はそこに出動し、その働きを評価され、「新撰組」を拝命することになりました。
《京都御所》
政変の舞台となった京都御所のエリアデータはこちらです。
京都御所は今では多くの方が訪れる京都の名所となっています。
新撰組、京都の歴史を感じたい方は特にオススメのエリアです。
【池田屋事件】
その後、新撰組を一躍有名にしたのが「池田屋事件」です。
1864年、京都三条木屋町の旅籠「池田屋」に長州藩・土佐藩の攘夷志士が潜伏しておりました。
そこに新撰組が襲撃を仕掛けます。
真夜中の非常に激しい戦闘の結果、攘夷志士の多くが切り捨て・捕縛され、新撰組の名が天下に轟くこととなりました。
《池田屋》
舞台となった池田屋は1960年頃まで当時の建物が残っていましたが、その後はテナントビルやパチンコ店になった後、2009年からは新撰組をテーマにした居酒屋となり、この場所には旅館の縁者が建立した石碑が残されております。
また、当時の激しい戦闘で三条大橋の擬宝珠についた刀傷が今でも残っております。
どの擬宝珠に傷がついているか探してみると面白いかもしれません。
【禁門の変】
池田屋事件をきっかけに長州藩は強硬派に引っ張られる形で挙兵・上洛を行い「禁門の変」を引き起こします。
長州藩は京都守護職の松平容保を排除するために挙兵し、京都市中で市街戦を繰り広げます。
京都市中は戦火により、約3万戸が焼失するほど大きな被害をもたらしました。
新撰組も鎮圧のために出動し、戦闘を繰り広げています。
蛤御門の門柱には今なお当時の激しい戦闘でついた弾痕が残っています。
《蛤御門》
蛤御門のエリアデータはこちらです。
その後、新撰組は池田屋事件と禁門の変の功績によって組織を大きく拡大することになります。
【鳥羽・伏見の戦い】
1867年、将軍・徳川慶喜は大政奉還を行いました。
新撰組は旧幕府軍に従って戊辰戦争に参戦します。
その初戦となったのが鳥羽・伏見の戦いです。
近藤は負傷していたため、土方が率いる新撰組は伏見方面での戦闘に参加します。
旧幕府軍側は旧伏見奉行所に本陣を展開し、御香宮神社に本陣を構えている新政府軍の元へ突撃を繰り返します。
しかし、薩摩藩砲兵の放った砲弾が旧伏見奉行所の弾薬庫に直撃し、奉行所は炎上します。
更に新政府軍は民家へ放火を行い、その炎を照明代わりに猛烈な銃撃を繰り返します。
そして、支えきれなくなった旧幕府軍は退却することになります。
《御香宮神社》
旧伏見奉行所跡は現在では石碑が残るのみとなっておりますが、新政府軍の本陣であった御香宮神社は現在でも残っております。
御香宮神社のエリアデータはこちらです。
【新撰組の崩壊】
鳥羽・伏見の戦いの結果、戦局の不利を悟った隊士は相次いで脱走していきます。
更に近藤との方針の違いから永倉新八や原田左之助らが離隊して靖兵隊を結成します。
近藤、土方は会津行きに備えて隊を再編成し、隊士を増員しました。
そして、近藤は名を大久保大和と改めました。
その後、新撰組は下総国流山に屯集することになりましたが、既に新政府軍が板橋宿に入っており、近藤は捕縛されることになります。
《板橋刑場》
近藤は捕縛された際に大久保を名乗っていましたが、元新撰組隊士であった加納鷲尾・清原清に正体を看破され、板橋刑場で斬首されることとなりました。
土方は近藤の助命のために江戸へ向かい、勝海舟に直談判しましたが、それは叶いませんでした。
板橋刑場のあった場所には、後に永倉新八によって近藤勇の墓が建てられることになります。また、塔の建立者である永倉新八自身の墓もこちらにあります。
板橋刑場のエリアデータはこちらです。
【箱館戦争】
近藤の死後、会津戦争において土方は斎藤一に指揮を委ね、援軍を求めて庄内藩の元へ向かいますが既に新政府軍へ恭順していた庄内藩には入城することすら叶いませんでした。
そこで土方は仙台藩へ向かいますが、会津に残ることを決めた斎藤一らと別れることになり、新撰組は分裂することとなります。
その後、土方率いる新撰組は蝦夷地へ向かい、函館・五稜郭を占拠します。
土方は弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士を助けに向かいますが、その途中で銃弾を受けて戦死します。
土方を失い、食料も水も尽きていた新撰組は函館・五稜郭で新政府軍に降伏することになります。
《五稜郭》
函館戦争の舞台となった五稜郭のエリアデータはこちらです。
現在では函館を代表する観光スポットとして有名であり、その特徴的な遺構は今なお残っています。
【まとめ】
新選組の結成から解散までの流れとゆかりの地紹介はいかがだったでしょうか?
新選組については今回紹介しきれなかった事件やゆかりの地がまだまだございます。
もし、追加で解説を希望の場合はコメント欄にご記載くださいませ。
また、その他にHISTRIPで取り上げて欲しいテーマがございましたら、お気軽にコメント欄にご記載くださいませ!
ご視聴ありがとうございました。
よろしければチャンネル登録・高評価を押していただけますと幸いです。
では次の動画・記事でお会いできるのを楽しみにしております。