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豊臣秀次によって築城!大迫力の八幡山城跡をめぐる

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    滋賀県近江八幡。1585年豊臣秀次によって築城された、八幡山城跡や八幡堀が有名です。豊臣秀次は、豊臣秀吉の甥で、秀吉の後継者になるはずだった人であり、当時秀吉の血縁者の男性で唯一成人していた人物です。
    しかし秀頼が生まれたことで自害に追い込まれてしまいました。そんな悲劇の武将ゆかりの地をめぐって歴史旅へ出発です。

     

     

     

     

    4分で八幡山山頂へ 近江八幡山ロープウェイから見る城下町

     

     

     

     

    <写真01_ロープウェイ乗り場外観>

     

     

     

     

    近江八幡駅からバスで13分、八幡山にのぼるためまずはロープウェイ乗り場にやってきました。15分ごとに運行しているロープウェイで、往復のチケットを買って少し待ちます。

     

     

     

     

    <写真02_赤こんにゃくなどの屋台>

     

     

     

    待合いスペースには、近江八幡名産の赤こんにゃくや、大人気の肉巻きドック、焼だんごなどが販売されています。

     

     

     

    <写真03_赤こんにゃく>

     

     

     

    ちなみにこの赤こんにゃくは、近江八幡の名産品で、織田信長ゆかりの食材とされています。
    毎年3月中旬に「日牟礼八幡宮」に奉納される天下の火祭り「左義長祭」。この火祭は踊り子が女装し、高さ数メートルにわたり炎を象徴する無数の赤紙を山車に飾り、町内を練り歩きます。その年の無病息災を祈願しつつ奉火奉納します。
    これは、信長が赤の長襦袢をまとい、踊り狂ったことがはじまりとされています。

    この勇壮な祭礼にちなみ、八幡名物・乃利松の「こんにゃく」も赤く染め上げ、冠婚葬祭いずれにも欠かせない食卓を彩る一品のご馳走になり重宝されているのです。

     

     
    医食同源美味健康とも言われる通り「赤」は食品添加物(三二酸化鉄)の着色で、鉄骨こんにゃくとも呼ばれる一方、この赤色の原料は三二酸化鉄(さんにさんかてつ)という食品添加物で、赤色を出す以外に食物繊維やカルシウムといった栄養も豊富に含んでいます。健康食としても地元ではとても愛されています。
    当然ながら秀次もお祝いの席があるごとに、この赤こんにゃくを食していたのでしょうか。

     

    そんな赤こんにゃくなどのお土産も販売されているので待ち時間も飽きません。ロープウェイ乗り場にはブランケットも用意されているので自由に使うことができます。

     

     

     

     

    <写真04_ロープウェイの中からの景色>

     

     

     

     

    片道4分、八幡山の歴史をスピーカーでききながら、ロープウェイでのぼっていきます。目下には城下町の風景が広がり、琵琶湖から水を引いて舟で商売を行っていたことがわかります。ここ、近江八幡の城下町には楽市楽座が敷かれ、近江商人が発祥しました。この後予定する、八幡堀の見学がとっても楽しみです。
    さらには遠くの方まで広々みることができます。
    ロープウェイから見る景色はとてもきれいでこれから向かう八幡山の山頂へさらに期待が深まります。

     

     

     

     

    秀吉の命で自害した秀次 母「とも」が弔いに創建した村雲御所瑞龍寺

     

     

     

     

    <写真05_お願い地蔵の看板>

     

     

     

    八幡山にのぼり一番最初に見えてくるのがお願い地蔵です。

     

     

     

    <写真06_並んでいるお地蔵さん>

     

     

     

     

    <写真07_お地蔵さんの道>

     

     

     

    かわいらしいサイズのお地蔵様が並ぶ道を歩くと、西の丸跡と村雲瑞龍寺(むらくもずいりゅうじ)に分かれる道に突き当たります。

     

     

     

    <写真08_分かれ道の看板>

     

     

     

     

    最終的に1周できますが、まずは右手の村雲瑞龍寺の道に進みました。ゆるやかな階段と少し急な坂道をあがると立派な門が見えてきます。

    ここ村雲御所 瑞龍寺門跡(むらくもごしょ ずいりゅうじもんぜき)は、八幡山山頂にある八幡山城本丸跡の寺院です。
    安土・桃山時代に、豊臣秀次の母であり、豊臣秀吉の姉である「とも」が秀吉に自害させられた秀次をとむらうために創建したものです。
    もとは京都の村雲に建てられたものですが1961年に現在地に移されたので、俗に村雲御所とよばれています。

     

     

     

     

    <写真09_瑞龍寺の門>

     

     

     

     

    <写真10_瑞龍寺門跡の札>

     

     

     

    ここで少し豊臣秀次についてご紹介します。秀次は、1568年に農民である木下弥助と、秀吉の姉「とも」との間に生まれました。初陣は、1582年6月で、明智光秀による本能寺の変で織田信長が亡くなった後の、山崎の戦いと伝えられています。その後は賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどで秀吉の縁者として重用されました。

     

     

     

    こうして一心に叔父である秀吉に尽くした秀次。自害という結末を知ってしまっては、哀れでなりませんね、、。

     

     

     

    活躍を重ね、近江・蒲生郡の八幡山城主(現在の近江八幡市)43万石となります。安土城の城下から商人を移住させ、碁盤目状の街路を作り、武家町と町民が住む区域を分けることで職人と商人が住む区域を分け、町づくりも抜かりなくこなしていたようです。

    その後、秀吉の側室である淀殿が鶴松を産み、わずか3歳で亡くなります。その後、後継者を失った秀吉は、秀次を養子とし、すぐに秀次を関白に就任させ、聚楽第に入り天下人とさせました。

     

     

     

     

    一見幸せに見えますが、ここからが悲劇の幕開けです。1593年、淀殿が豊臣秀頼を産みました。この時57歳で余生が短いと感じた秀吉は、やはり実の子供を後継者にしたいと考えます。すると邪魔者は関白・秀次ですね。ついには秀次が疎まれるようになったのです。
    豊臣秀次事件として知られる、秀吉が秀次を謀反をおこしたとして自害に追い込むこととなります。

     

     

     

     

    <写真11_村雲瑞龍寺>

     

     

     

     

    自分の弟である秀吉に、実の子を自害させられた「とも」の気持ちを思うと胸が痛みます。

     

     

     

    八幡山城跡西の丸跡から四季折々の絶景を体感しよう 秀次が見た景色

     

     

     

     

    つづいて向かうのは出丸。出丸からは琵琶湖の展望が素晴らしいです。八幡山城は東西南北、すべての方向の展望が良い山城だそうです。続いて西の丸跡へ。少し急な階段を下り、道を進みます。豊臣秀次は18歳の若さで八幡山城主となりました。

     

     

     

     

    <写真12_下り階段>

     

     

     

    八幡山城跡は、現在城跡は残っておらず、残ったのはこの石垣のみです。

     

     

     

     

    <写真13_石垣>

     

     

     

    秀次による八幡山築城についてはくわしい資料が少なく、特に城閣については何の情報も残っていないそうです。

    ですが、この石垣だけは数百年を経て今も残っています。

     

     

     

    <写真14_石垣2>

     

     

     

    そびえ立つ石垣は本当に迫力満点です。石垣からは木も生えていて当時と変わらず今もその姿を残しています。

     

     

     

    <写真15_西の丸からの景色>

     

     

     

     

    道を進むと、まず目に入るのはきれいな青空と水平線、広大な琵琶湖です。

     

     

     

     

    <写真16_景色2>

     

     

    村雲御所瑞龍寺を見学し、歩き疲れて下山してしまう方もいるかもしれませんが、この景色だけは絶対にみていただきたいです。

     

     

     

     

     

     

     

    いかがでしたか。秀次がつくりあげた商人のまちを八幡山城跡からみました。まちの人々から深く信頼されていた秀次はどんな思いで城下町を見下ろしていたのでしょう。
    大パノラマで近江八幡を感じながらゆっくりと過ぎゆく時間を過ごしてみてはいかがでしょうか。