【長州藩ゆかりの地を旅する】 山口に残る幕末の史跡ルートをご紹介
山口県には、長州藩ゆかりの地が多く残っています。
長州藩出身の藩士が明治維新を起こした中心人物であったため、特に幕末の動乱の時代に関するものが多く残り、重要文化財に指定されているものもあります。
今回はそんな長州藩ゆかりの地を紹介します。
この記事の目次
山口県指定の重要文化財「旧山口藩庁門」と幕末の名残を感じるお堀
新山口駅から防長バスに30分ほど揺られると、「県庁前」に到着します。
そこから水の音が聞こえる方向へ目を向けると、県指定の重要文化財である「旧山口藩庁門」(きゅうやまぐちはんちょうもん)があります。
旧山口藩庁門は、1864年に藩主の毛利敬親が、藩政の本拠地を萩から山口へ移すため建設した山口城の表門として築かれたものです。
当時は、幕末の動乱時期で、高杉晋作、桂小五郎、伊藤博文などの長州の藩士がこの門を通ったと言われています。
1871年の廃藩置県までは藩庁門として、その後は山口県庁正門として、使われました。
現在は新県庁舎の西口の門として利用されています。
今自分が立っている場所がかつての藩士も通っていたと思うと、歴史の経過を感じ、驚きました。
藩庁門の周りはお堀で囲まれています。
敬親は幕府の反対を無視して、藩庁を萩から山口へ移しました。
この藩庁は、「山口城」と呼ばれることもあり、その名に恥じることのないよう、周りをお堀で囲み、守りを固めたと言われています。
現在でもそのお堀の一部が残っており、その長い歴史を感じました。
旧山口藩庁門 所在地:山口県山口市滝町1-1
山門と観音堂が重要文化財に 約600年の歴史を持つ山口「洞春寺」
旧山口藩庁門から北へ10分ほど歩くと、「洞春寺」(とうしゅんじ)に到着します。
このお寺の始まりは、1404年に家内繁栄の祈願所として建立した国清寺です。
明治時代初期に毛利氏が防長に移ってからは、戦国大名であった毛利元就の菩提寺となりました。
山門を抜けると、松の樹に挟まれた道が続いています。
この山門は国清寺創建時に建てられたものと言われています。
松の並木道を抜けると、本堂と観音堂が目に入ります。
写真は観音堂です。
本堂は江戸時代に焼失し、再建されたものですが、観音堂も国清寺創建時のもです。
山門とともに国指定の重要文化財となっています。
山門や観音堂には、長い歴史があるからこそ醸し出せる、堂々とした雰囲気がありました。
洞春寺 所在地:山口県山口市水の上町5-27
薩長連合の密議は山口で 「枕流邸」で薩長藩士たちへ想いを馳せる
洞春寺のすぐ北側には、「香山公園」(こうざんこうえん)があります。
香山公園の敷地内にある「枕流邸」(ちんりゅうてい)です。
一見古い普通の建物ですが、ここで薩長連合の話し合いが行われていたのです。
1867年には、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通がこの地を訪れ、長州藩の伊藤博文や桂小五郎と話し合いをし、連合討幕軍の結成を誓ったと言われています。
枕流邸は2階にも上がることができ、そこで討幕軍結成の話し合いをしていました。
そこまで広くはない、普通の建物だからこそ、倒幕いついて隠れて話し合いをすることができた、ということをうかがい知ることができます。
是非、幕末以降の日本を作る蜜議が行われてたこの「枕流邸」を訪れて、倒幕に関わった藩士たちへ想いを巡らせてみてください。
枕流邸 所在地:山口県山口市香山町香山公園内
萩の歴史旅まとめ
山口には数多くの長州藩に関する名所が残っています。
明治維新で活躍した藩士を多く輩出した街であるからこそ、そのような名所が残っているのです。
その地を巡ることで、動乱の時代を生きた藩士たちに思いを巡らせてみませんか。