昔から今に受け継ぐ飫肥の歴史 八幡通り周辺で飫肥の歴史を巡る旅
宮崎日南市の飫肥城下町といえば、大手門につながる「大手門通り」や歴史的街並みを感じさせる「武家屋敷通り」が有名です。
しかし、「八幡通り」周辺にも、飫肥の深い歴史は存在します。
今回は、そんな八幡通り周辺で観光できるおすすめスポットを紹介します。
この記事の目次
日本で有名な外交官「小村寿太郎」がかつて学んだ「振徳堂」とは
飫肥駅から徒歩約15分で「振徳堂」(しんとくどう)に到着します。
八幡通りに存在する「振徳堂」ここはかつて飫肥藩の藩校として1831年に、藩主祐相によって建築されました。
「振徳堂」の由来は、孟子の教えである「又従而振徳之」からだそうで、「徳を振るわせる」「文武を振るわせる」の意味が込められています。
明治の外交官「小村寿太郎」も、この振徳堂の門下生として、未来を創造し、新たな時代を切り拓く「文武不岐」の精神を学んだ若者の一人でした。
他にも、小村寿太郎の人生に大きくかかわった「小倉処平」も門下生でした。
東側と南側は飫肥石で積んだ石垣で囲まれ、長屋門と母屋が現存します。かつては寮、書庫、武芸所などを構えていました。
建物は、西南戦争で飫肥隊の兵站部となり、その後は、尋常小学校、青年学校を経て、戦後は飫肥保育園として使用されました。
1976年に飫肥城復元事業の第一号として市民の募金により修築、復元されました。
敷地内には、小村寿太郎と、小倉処平の銅像が飾られていました。
日本に大きな影響を与えた小村寿太郎がかつて学んだ「振徳堂」町並みもそのままで、静かなこの町は、かつての風景がよみがえり、まるでタイムスリップしているような気持ちにさせてくれました。
飫肥の「弥五郎様」伝説 御神体を担いできた「田ノ上八幡神社」の謎
続いて「振徳堂」を出てすぐ左に進み、八幡通りの一番奥にある「田ノ上八幡神社」(たのうえはちまんじんじゃ)を訪ねました。
たどり着いた先には、白い鳥居と長い石段がありました。
この神社は、かつて飫肥城の一角八幡城にありましたが、1588年に飫肥藩初代の伊東祐兵が、この地に還宮(せんぐう)したものです。
石段を上ると、その途中に標高約30メートル、幹周り約9.2メートルで、みやざき巨樹百選に選ばれている楠の巨樹がありました。
これは、遷宮の記念に、祐兵自身が手植えしたと伝えられています。
なんとも立派な木ですよね。樹齢は約410年だそうです。
石段の頂部には石造鳥居がありました。
この神社は一説によると、大隅国桑原郡に「稲津弥五郎」という者がおり、その地の一宮八幡の御神体を背負い来て、この地に祀ったとも云われています。
本殿は瓦葺の覆い屋根が架かっています。
中を覗くと「弥五郎様」が飾られており、迫力がありました。
しかし真っすぐとこちらを見る弥五郎様の表情は少し怖かったです。
境内社と境内隅にある板碑です。
毎年11月23日に行われる秋祭りには「弥五郎様」と呼ばれる高さ7メートルもの巨大な人形が行列の先導を練り歩くそうです。
また、飫肥城下まつりでも見ることができるそうです。
そして社殿にある御神体を担いできたとされる稲津弥五郎にちなむもので、宮崎県山之口町の「的野正八幡宮」の弥五郎どんが長男、鹿児島県曽於市大隅町の「岩川八幡神社」の弥五郎どんが次男、日南市飫肥の「田ノ上八幡神社」の弥五郎どんが三男といわれており、同様の「弥五郎どん祭り」が行われているそうです。
飫肥で有名 元祖おび天本舗で数百年前から伝わる「おび天」を堪能
続いて田ノ上八幡神社を約2分下って右に曲がり、飫肥で有名なご当地グルメ「おび天」のお店「元祖おび天本舗」(がんそおびてんほんぽ)を訪ねました。
元祖おび天本舗は昔ながらの製法で味を伝えて数百年。庶民の味として昔から親しまれてきたのが、この「おび天」です。
店内に入ると「おび天」や「おびあげ」の商品がずらりと並んでいました。
実際にあゆみちゃんマップの引き換え券を使って、「おび天」を食べてみると、ふわっとした食感と香りが口の中に広がり、ずっと手が止まらないやみつきの味でした。
近海で採れる小魚のすり身に豆腐味噌黒砂糖をつき混ぜて味をまとめているそうです。
店内には昔らしさを感じさせるような、「おび天」を味わえる休憩場も用意されており、「おび天」をゆっくりと味わうこともできます。
やはり歴史を辿る旅は面白いですね。
歴史に名をはせる人物が通っていた藩校が残っていたり、御神体を担いできたという伝説があったり、そしてこの町で愛され続けている食があったり。
飫肥にはそんな深い歴史が数え切れないほど多く残っています。
是非、足を運んで当時の想いを感じながら歴史を巡ってみませんか。