【安土城】織田信長が築いた当時最先端のお城とは
日本のお城を語る上で、重要な人物、織田信長。信長は、日本のお城の形が大きく変わることになった安土城を築きました。
戦にむけて防衛を主としたお城から、豪華絢爛な人をもてなしたり権威の象徴として機能しはじめた城の歴史を追っていきましょう!
織田信長とは
織田信長は、1534年に尾張国で那古野城にて織田信秀の三男として生まれました。三男ではありましたが、信長の母は、父・織田信秀の正室・土田御前であった為、織田家の嫡男扱いとなり、後継者として育てられました。
よく知られている通り、幼少の頃から奇行や奇抜な行動が多く「尾張の大うつけ者」としても知られていました。
1551年、父・織田信秀の急死により、18歳の頃に、信長が織田家の家督を継ぎました。
信長は、1554年から清州城を本拠地とし、その後、小牧山城・岐阜城・安土城と、居城を移していきます。
それまでの常識は、自身の地元に本拠地を置いていましたが、信長は次々に居城を移しました。その理由は、拡大した領土の中心地にあるべきだという考え方をもっていたからだとか。
確かに、敵が攻めて来た際に、救援軍を出すにしても、中心地から各地に赴いた方が、領土全体を守ることができますね。
1560年、桶狭間の戦いが起こりました。
桶狭間の戦いは、尾張の大名である織田信長が少数の軍勢で、今川義元の本陣を強襲し、勝利をおさめた戦いです。
1582年3月に甲斐の武田勝頼を滅ぼし、天下統一まであと少しと言う時期に、1582年「本能寺の変」が勃発しました。
皆さんご存知の通り、本能寺の変にて自害することになります。
織田信長が築いた安土城
JR安土駅の北東、標高199mの安土山一帯にある安土城跡。安土城は、1576年から約3年の年月をかけて築城されました。
琵琶湖のほとりに建つ安土城は、なんと築城からわずか3年、本能寺の変の直後に焼失してしまいました。豊臣秀吉が天下統一を推し進める過程で廃城となったのです。
現在は、石垣のみが残ります。
ちなみに、この時代のお城はあくまでも戦いのためのもので防衛が主な目的のために造られていました。居住するなんてもってのほかと思われていた時代、信長は安土城に住んだとされます。
さらに天守閣を本格的に建てた初めての人物とされている信長。黄金や朱の美しさはもちろんのこと、なんと安土城の天守閣には、八角形の部分がありました。
ちなみになぜ八角形だったのかなどの記録は残されておらず。
歴史のロマンを感じますね。
その後の世に大きな影響を
信長が築城した安土城を堺に、多くの大名が日本全国に天守閣を持ったお城を築城しはじめます。
さらに石垣の上に櫓を建てるなど、安土城を手本に築城が進められました。
現在も残されている石垣は、滋賀県比叡山坂本出身の穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる技能集団によって積み上げられました。天守閣だけでなく、また石垣も城郭技術に大きな影響を与えることになり、穴太衆積みが全国に広まることになります。
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織田信長と日本のお城について追ってきましたが、いかがでしたか。信長がいなかったら日本の城はまだ山城のように整えられていなかったかもしれませんね。
時代を切り開いていった信長は、日本のお城の歴史も開拓していったのです。