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【六治郎とは】江戸の発展に陰ながら活躍した偉人に迫る

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    徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府が開かれました。もともと海で井戸を掘っても塩気のある水しか出なかった関東で、1からのスタートを切った家康は、飲み水の確保に大久保藤五郎を任命します。
    藤五郎が整備した小石川上水が人々の喉を潤していた矢先、人口爆発によりさらなる水源が必要になります。今回は、そんな水源拡大の歴史を追っていきましょう!

     

     

     

    江戸の発展により爆発的に増えた人口の弊害

     

     

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    江戸に幕府が開かれたのは1603年(慶長8年)のこと。それ以来、江戸の町は拡大・成長を続け人口も年々増えていきました。記録によりますと開府からまもない1609年頃の江戸の人口はどれくらいだったかといいますと、およそ15万人でした。

     

     

     

     

    1635年(寛永12)に参勤交代が始まると、江戸へ参勤のために各国からやってくる大名のための武家屋敷が建設されるようになりました。

     
    大名家の妻や一部の家臣も江戸に住むようになるため武家人口は増え、それに伴い町人人口も増加します。

     

     
    さらに武家の大名統制手段であった参勤交代と同じ方法が寺院にも適用され、全国にある各宗各派の本山は、江戸出張所としての寺院をもつことになりました。
    そうした寺院の激増も加わり、最盛期の江戸の人口は110~130万人と!

     

     

     

     

    こうした人口が増えることによって新たな問題が発生します。土地問題、街道問題、食糧問題、そして飲み水問題!
    今回は、飲み水問題について、追及していきます。

     

     

     

    人口爆発により、新たな水源が必要に

     

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    急激な人口の増加によって様々な問題が発生した江戸。徳川家康が、1590年に駿河から関東に移った後、伊奈忠次や橋本庄三郎らに江戸の整備を進めさせました。
    中でも大久保藤五郎は、もともと菓子職人だったにも関わらず、水道事業の責任者へ大抜擢されます。
    大久保藤五郎は、「赤坂の溜池」「神田明神山岸の細流」を使用し、小石川目白台の河流を飲み水としました(小石川上水)。

     

     

     

     

    上水が整備されて15年経った頃、さらに人口が爆発的に増えた江戸では、藤五郎の上水では足りず、さらに新たな水源が必要になります。
    そこで家康が目をつけたのが、井の頭。

     
    なんとたまたま家康が鷹狩りに出かけていた時のこと。粘土の赤銅色の土を見て、豊かな地下水があることを予想します。湧きどころへ、地元の民へ案内させました。
    湧水点は森の中にあり、案内をした民は、その池を「七井の池」(現在の井の頭)と言いました。

     

     

     

    新たな水源を発見!井の頭から飲み水を引く

     

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    さて、井の頭を見つけた家康は、井の頭の池を新しい水源として採用します。

     
    その際家康は、藤五郎ではなく、その案内をさせた民、六治郎を普請役へと取り立てました。なぜ業績のある藤五郎ではなく、六治郎にまかせたのか。それは村の有力者だったことだと言われています。

     

     

     

     

    井の頭は湧水点が7つあり、かつては「七井の池」と言われていました。

     

     

     

    そこに住む人々は水に不自由せず、過ごすことができていました。そんな村人のオアシスを江戸に住む人々へ分けるとなれば、もちろん大反対!

     

     
    江戸の飲み水として使用するためには、徳川幕府は地元の有力者であった六治郎に任せたほうが、地元民による反対を逃れ、整備できるという考えがあったのだとか。

     

     
    普請役も立て、さっそく江戸の民へ新たな水を届けるため、動き出します。
    1629年、藤五郎が整備した小石川上水を拡張します。

     

     

     

     

    井の頭池などを水源として、平川の水を小石川の関口で取水し、石樋で市中に供給しようというものでした。

     

     

     

     

    樋は関口から後楽園を通り、水道橋あたりで神田川をまたぎ、神田、日本橋方面へと通じていました。

     

     

     

    神田川を渡る際には橋に木製の樋を通します。水道橋という名前はこのことから生まれたものです。 この神田上水が神田川の上を横切るために作られたのが水道橋です。

     

     

     

     

    神田川を渡った神田上水は、ふたたび地下に入って神田から日本橋方面、江戸の下町の北半分に給水されました。

     

     

    神田上水のもととなった水源をたどる旅

     

     

     

     
    今回もさっそく歴史旅に出かけましょう!
    まずは、小石川上水が整備された後の15年後に、家康が目を付けた、井の頭の湧き水跡を探します!

     

     

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    やってきたのは井之頭公園。
    ここは、神田川の源流です。

     

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    まずは、井の頭公園の弁天様へご挨拶にいきましょう。弁天様は水の神様でもあります。
    池のほとりにあるロケーションが素敵な場所ですね。

     

     

    <写真02_弁天様>

     

     

     

    この弁財天様は、江戸町民からの厚い信仰をうけ、行楽の地としても愛されました。清く澄んだその水は、江戸時代の代表的な染物である江戸紫を染め出すためにも利用されたのだとか。
    人々の喉をうるおすだけでなく、産業もうるおわせた水なんですね。
    続いて訪れたのは、「御神水」。
    これが江戸の人々の命をつないできた飲み水の湧いている場所です。

    静かな素敵な場所でした。

     

     

     

    神田上水発展の軌跡を、六治郎という人物を追って、ご紹介してまいりました。いかがでしたか。
    いま私たちの暮らしに欠かせない、水道。実は藤五郎、六治郎など様々な人々が関わり現在の水道につながっているのですね。
    東京のまちを歩きながら、ぜひ想いを馳せてみてはいかがでしょうか。