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終戦から約66万人もの引揚者を出迎えた再会の港 舞鶴引揚記念館へ

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    京都府の日本海側にある舞鶴は、かつて「引き揚げ」の港であった歴史をもちます。
    シベリアで重労働を課せられていた多くの人々が、やっとの思いで舞鶴に入港しました。
    今回はユネスコ世界記憶遺産にも登録されている、引き揚げについて学びましょう。

     

     

    終戦を迎えて日本本土へ 「引き揚げ」の歴史

     
    引き揚げ(ひきあげ)とは、1945年の太平洋戦争および日中戦争で日本が敗戦となるまで、日本の植民地や占領地で生活していた日本人が、日本本土に戻されることを指します。

     

    1945年8月15日、日本国民に向けて「玉音放送」が流されました。
    玉音放送で、昭和天皇は「終戦に関する詔書」を発表し、ポツダム宣言を全面的に受諾すると知らせました。

     

    そのポツダム宣言の第9項に、引き揚げについて書かれています。
    第9項「The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.

    (日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめられるべし)」
    この一文から引き揚げがはじります。

     

    その後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は日本がポツダム宣言を遂行するように、さまざまな指令を下しました。
    引き揚げに関しては、引き揚げに関する中央責任官庁の設置や、受け入れ体制の整備を命じます。

     

    終戦時に日本国外にいた日本人は、約660万人。
    うち軍人が約350万人、一般人約310万人でした。
    軍人、一般人の順に引き揚げが行われました。
    一般人は、現金1000円とわずかな荷物しか持ち帰ることは許されなかったそうです。

     

    引き揚げは、 浦賀・舞鶴・呉・下関・博多・佐世保・鹿児島・函館・大竹・宇品・田辺・唐津・別府・名古屋・横浜・仙崎・門司・戸畑の 18港で開始。
    開始から4年で、約620万人が帰還しました。
    短期間でこれほど大規模な移動が行われたのは、世界的に見ても珍しいことで、GHQは伝染病の蔓延などを防止するために、港で厳しい検疫を実施します。
    そのため感染症患者が発見された船では、乗っていた全員がしばらく国内に入ることはできず、船上で命を落とす方も多くいました。
    無事に国内に入った引揚者には、宿泊所・食事が無料で提供され、故郷へと帰る旅費も一部支給されました。

     

    世界記憶遺産 シベリアから舞鶴への生還

     

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    2015年、引き揚げに関する記録「舞鶴への生還1945〜1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」が、ユネスコ世界記憶遺産に登録されました。

     

    世界記憶遺産とは、世界的に重要である記録の認識・保存・アクセスを促進するために、1992年からはじまった事業です。
    現在登録数は約470件で、日本に関係する記憶遺産は7件あります。

     

    そのうちの一つが、「舞鶴への生還1945〜1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」です。
    舞鶴では、引き揚げ者全体の1割に当たる約66万人が上陸しました。
    1945年10月、引揚第一船「雲仙丸」に乗った約2100人をはじめに、1947年には旧ソ連からの約20万人を乗せた83隻の船が入港。
    ところが1年余りで、捕虜としてシベリアで抑留されている人々を残し、ソ連からの引揚が中断します。
    そして引揚事業が再開されたときには、舞鶴だけが引揚港として、引揚者を受け入れたのです。
    1958年に入港した引揚船「白山丸」を最後に、引揚事業は完了しました。

     

    「舞鶴への生還1945〜1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」は、そのような終戦後13年にわたって舞鶴へ引き揚げられた人々の記録です。
    約660万人の引き揚げという歴史を残し、調査研究へと結びつけたい、という思いから、世界記憶遺産の登録にいたりました。
    記録の点数は570点にのぼり、シベリアでの生活を詠った、約200首の和歌を収めた「白樺日誌」や、靴の中に隠して持ち帰ったメモ帳などが含まれています。
    ラジオのモスクワ放送で流れていた抑留者の情報を聞き取り、日本の家族へ伝えた葉書やその葉書への礼状といった、モスクワ抑留の悲惨な状況や引揚者の思いにとどまらず、帰国を待つ家族の思いを感じる記録も。
    記録は舞鶴引揚記念館で大切に保管・展示されており、見ることができます。
    また当時の引き揚げで使われていた桟橋も縮小して復元されています。

     

     

    引き揚げの歴史を学ぶなら 舞鶴引揚記念館へ

    <写真16_alt:alt引揚記念館正面>
    それでは引き揚げの歴史理解を深めるために、舞鶴引揚記念館へ向かいましょう。
    舞鶴引揚記念館は、1988年4月に舞鶴市民や引揚者をはじめ、全国の人々の支援と協力によって開館しました。
    決して同じことが起きないように、「引き揚げ」の歴史を後世へと伝え、平和の尊さや祈りを発信しています。

     

    <写真17_alt:alt展示品>

     

    全国から寄贈された約1万6千点の貴重な資料のうち、常設展示で1000点を超える資料が公開されています。
    展示資料は、シベリアの極寒を耐えてきたコートや帽子、先述した白樺日誌など、シベリア抑留の歴史を語る「生きた歴史」です。

     

    <写真18_alt:altシベリア抑留者の様子>

     
    こちらは収容所を再現したもの。ログハウスのような小屋に見えます。
    右側に立っているのはロシア人で、収容所にいる日本人を監視する役割です。
    上に横たわっているのは、身体が弱っている人で、少しでも温かいところに、と上にいたそうです。
    円になって座っている5人は、黒いパンを計量しています。
    シベリア抑留者は十分な食事や衣服を与えられず、いつ亡くなってもおかしくない状況だったことから、はかりで均等に分けないと争いになるからだそうです。
    そのような過酷な生活を経て、やっとの思いで帰国した引揚者を待っていたのは、舞鶴の人々の心温まるおもてなしでした。
    戦後ということもあり、舞鶴市民も決して裕福とはいえない状況でしたが、お茶や蒸かしたイモをふるまったそうです。
    そのおもてなし活動の中心となったのは、引き揚げの母と呼ばれる田端ハナさん。
    当時舞鶴の婦人会に所属していた田端ハナさんは、「引揚者を出迎える際に自分たちにできる最大のことを」と考えて、おもてなしを行われたそうです。
    心温まるおもてなしは、引揚者の安堵と不安が入り交じった心をほぐしたことでしょう。

     

     

    決して忘れてはいけない、そして後世に伝えていくべき記憶。
    引き揚げという歴史から、あらためて平和について考えてみませんか?

     

     

     

    文字で歴史を学ぶだけではなく、実際に使われていた道具や手紙などを目にすると、その悲惨さがひしひしと伝わってきます。
    「二度とこのような悲惨なことが起きてはならない」と強く感じました。
    一度は舞鶴引揚記念館を訪れ、平和の尊さを感じていただきたいと思います。