高野山天上の世界へ 俗世から隔たれた神秘の土地に眠る戦国武将
周囲が1000m級の高く深い山々に囲まれる、標高800mの和歌山県高野山の町。約1200年もの間、深い信仰がある高野山に戦国武将の供養塔が約2万基並ぶのはご存知でしょうか。
真言密教と乱世の世を駆け抜けた英雄たちとの関係とは。深い秘密に迫ります。
この記事の目次
織田信長に明智光秀の墓 戦国武将の墓が高野山に集まる秘密とは
弘法大師御廟へと続く沿道は樹齢約500年の立派な杉の木に囲まれ、空気が澄み渡っています。
そんな道のほとりにある多くの苔むした墓。実はこの墓地の中にとても有名な戦国武将達の供養塔が建立されています。
なんと戦国時代・江戸時代の約半数以上の大名が分骨された遺骨や爪、髪の毛などを埋葬した供養塔や菩提所として高野山にゆかりを持っているそうです。
黒田官兵衛、伊達政宗、石田三成、織田信長、加賀前田家、薩摩島津家、小田原北条家、毛利家、徳川家、豊臣家などの名だたる武将・大名たちの墓が並びます。
なぜこのような戦国武将の墓があるのでしょうか。
それは死者の極楽往生を願い、弘法大師の御廟があるこの地に建てられたと言われています。
お大師様のそばに、という高野山・空海という存在に対する憧れがあったのでしょう。
古より、高野山は「天下の総菩提所」つまり、死者の魂は高野山で弔えば、大師・空海の偉大な力によって極楽浄土へ行くことができるとされていました。
高野山は、空海が開創した土地であり、入定後も、空海の教えや思想の威光は、一宗教の枠組みを超え後世の現在に至るまで浸透し、大衆の心の奥深くに根付いています。
このように、大師・空海があまりに偉大すぎたため、後世に残された者たちは空海が今も尚、生きていて、広大な悟りの境地をさらに極めつつあると自識しています。
その思いがいつしか「空海の傍で永眠すれば、極楽浄土へ行ける」との言葉となり、これが伝承され、高野山では宗派の隔たりなく墓石群が形成されるようになりました。
平安時代以降、荘園などの経済的基盤が優位であった仏閣は、戦国時代になると、戦国大名などによる荘園侵略が横行し経済的に危機を迎えます。
それに対応すべく高野山の各寺院は、各地の有力な武士(戦国大名や武将など)と師檀関係や宿坊契約を結び、寺領の保全を図ろうとしました。
このように寺院の思惑と武士側の高野山に対する信仰心が結びついて、高野山の奥之院に多数の戦国武将の墓が設けられた一説もあると言われています。
武田信玄と上杉謙信 高野山で向かい合い眠る越後 甲斐の英雄たち
武田信玄と上杉謙信、両雄は4度戦ったものの決着が付かなかった事で有名な「川中島」にて戦いあった武将です。
その2人の墓地がこの高野山にあり、まるでそれぞれ向かい合ったような位置に墓地が置かれ、今でも競い合っているように見えます。
軍略だけでなく領国経営にも秀でており、「風林火山」の文字を掲げ、「甲斐の虎」の異名を取った武田信玄。
信玄は乱世の時代を生きましたが、神仏に帰依し墓所をこの奥之院に求めたとされています。
向かって左が武田信玄、右が武田勝頼の供養塔です。
父・信玄の五輪塔の方が一回り大きく偉大だったことと想像できます。
聖地高野山 本能寺の変から続く 織田と明智の戦いとは
武田信玄と上杉謙信の墓の付近に「明智光秀」の供養塔があります。この「明智光秀」の墓石は割れたままになっているそうです。
五輪搭と呼ばれる高野山独自の墓石。上から順に、空、風、火、水、地を表現しています。
水の部分が見事に割れているのがわかります。
今までに何度つくり直しても、そのたびに信長の怨念か墓石が割れてしまうのだそうです。
ちなみに、明智光秀は、高野山からすると恩人にあたります。
というのも、1582年頃、織田信長は自分に従わない高野山を攻撃しようと計画していたそうです。
その頃、ちょうど光秀が、本能寺の変を起こし信長の命を奪いました。本能寺の変が起こらず、信長が健在であれば、高野山も比叡山延暦寺同様、焼き討ちされていたのかもしれません。
そんな英雄のお墓を横目に先へ進むと、弘法大師御廟(こうぼうだいしごびょう)が見えてきます。
橋を渡った所にある御廟は、橋が御廟と現世を分けているようにも見えました。
いざ入るとそこで修行されている僧侶たちのお経を唱える声が響き渡り、神聖な雰囲気が醸し出されています。
いかがでしたか。空海が開いた真言密教と乱世の世を駆け抜けた英雄たちとの関係の歴史を紐解いてきました。
戦国武将も虜にした和歌山県高野山の魅力を感じながら、これまでと違った高野山の巡り方を楽しんでみてください。