富田林寺内町で愛された石上露子の生涯を旧杉山家住宅を通して感じる
大阪府富田林市寺内町(じないまち)にとって、石上露子は愛される存在。
彼女が過ごし、感じ、感性を磨いたふるさとには、寺内町のランドマークであり、彼女が生涯過ごした旧杉山家住宅があります。
彼女の歌碑などがある本町公園もあり、歴史が生きるまちを石上露子の生涯を追いながら楽しんでみませんか?
この記事の目次
富田林寺内町で 白菊の花と例えられた歌姫石上露子ってどんな人
石上露子(本名 杉山孝)をご存知でしょうか?
彼女は浪漫主義の歌人で、一世を風靡しました。
大阪府富田林市寺内町の酒造の名家に生まれ、英才教育に恵まれて育ちました。
1900年頃、家庭教師の引率で東都見学に上京した際、孝はある青年と出会い恋に落ちました。
しかし名家のため許されることはなく、叶わぬ恋として心にしまったようです。
そうやって彼女の文筆活動がはじまりました。
青春の絶望や嘆きを古典的な情趣を交えて、短歌に託する手法は、与謝野晶子などの女性歌人たちが歌った浪漫主義を感じることができます。
晩婚にて結婚した彼女は、家庭に入り2人の子供に恵まれました。
しかし長男は京都で病死、夫と残った息子にも先立たれてしまい、晩年は寺内町旧杉山家住宅に戻り、歌を歌いながら、穏やかに生涯を閉じられたそうです。
そんな彼女が生まれ育ち、愛したまちをより知りたくなりました。
石上露子のこだわり 和洋が織り交ざる旧杉山家住宅で寺内町を感じる
富田林寺内町一の名家と言われた杉山家、現在も住宅は残っています。
今では見学スペースとして開放されており、たくさんの人が訪れています。
杉山家は当時から
富田林の酒造の井戸は 底に黄金の水が沸く
一に杉山 二に佐渡屋 三に黒さぶ金が鳴る
と子守歌で歌われるほどの名家。
いくつもの部屋が並び、大きな庭さきにはたくさんの酒蔵が残されています。
石上露子が晩年を過ごした旧杉山家住宅は当時のままに残されています。
彼女が愛した和と洋の交わりは色濃く住宅にも出ており、茶室やらせん階段も残っています。
大床ノ間(オオドコノマ)には文化・文政の頃、狩野散人杏山によって描かれています。
欄間は1737年に作られたもので、薩摩杉を使用し、菊の模様の透かし彫が楽しめます。
そしてなんといっても奥座敷には数寄屋造りの洗練された座敷は石上露子も好んで使用したといわれています。
風が吹き抜ける造りになっており、とても落ち着ける場所でした。
ここからたくさんの歌が生まれ、彼女の感性が磨かれたのでしょう。
旧杉山家所在地:大阪府富田林市富田林町14-31
乱世を生き抜いた石上露子~今もなお愛される寺内町の彼女の歌碑~
富田林駅から、重要伝統的建造物群保存地区に入るまでの間にある本町公園には、石上露子の歌碑があります。
「みいくさに こよひ誰が死ぬ さびしみと 髪ふく風の 行方見まもる」
これは日露戦争の激しい戦いの中で生まれた歌であり、与謝野晶子の「きみしにたまふことなかれ」よりも二か月も前に発表されたものです。
「日露の激しい戦いの報を聞くと私の胸は痛む。今宵は誰が戦死するのだろうと思うと、なんともいえず寂しいので、私の髪を乱して吹いて過ぎる風のかなたを、目を凝らしてみている。妻や母たちの悲しみを思いつつ」
現在、生きていることが当たり前であり、なかなか死を感じることがない。
やりたいことが見つからない。という方も多いのではないでしょうか。
しかし彼女や先人にとって死は近いもので、だからこそ人生を何にささげるかという点には必ず強い思いをもっていたのではないでしょうか。
彼女は歌うということを通して、自分の価値を世に提供したのでしょう。
そんな生き様を感じに、寺内町にお越しください。
彼女が見て、感じた風は今もさわやかに吹き抜けています。
名家に生まれながら、波乱万丈な人生を送ってきた石上露子。
彼女を知ることはできましたか。
実際に足を運び、一人の乱世に生きた女性の生涯を感じに、ぜひ富田林寺内町にお越しください。
古い町並みを楽しむことができるだけではなく、特別な想いをもってお過ごしいただくことができます。