角館に江戸時代から伝わる伝統工芸白岩焼の200年知られざる物語
秋田県仙北市白岩という地に根付いた白岩焼(しらいわやき)。
200年もの間で、創始・繁栄・衰退・復興と激動の時代を過ごした白岩焼と白岩焼を復興させ今もなお白岩の地で白岩焼を受け継ぎ白岩焼を守り続けている和兵衛窯(わへえがま)に迫ります。
この記事の目次
ここ仙北市白岩で創始された白岩焼のルーツとその後の発展に迫る
白岩焼は、秋田藩から藩外の有識者として招かれた相馬大堀焼(そうまおおほりやき)の関係者であった松本運七(まつもとうんしち)によって1771年に白岩の地で始められました。
運七は適した場所を求め探しているうちに白岩の陶土を発見します。
その地が仙北市角館です。
その地にある白岩焼和兵衛窯の工房は、角館駅から車で約10分の自然豊かな場所にあります。
白岩の地で運七の元で陶技を学ぶべく白岩の住人の中から弟子が集まりました。
その中の一番弟子であった山手儀三郎(やまてぎさぶろう)は、上京し、京絵・上絵・楽焼などの技術を持ち帰り、その後の白岩焼発展の基礎を作りました。
そしてその技術が白岩の地に浸透し、窯6つ、働き手5,000人という最盛期を迎えました。
白岩焼の特徴は、藩への献上品というだけでなく、庶民が普段の生活の中で使っていくようなものまで幅広く多種多様な製品を作っていました。
和兵衛窯は自然豊かな地に存在し、角館の伝統を紡いでいました。
他の焼き物の乱入と震災により衰退を辿った白岩焼の角館での復活
発展をしていった白岩焼は、江戸から明治にかけての動乱、藩外からの焼き物の流入による競争などで徐々に衰退していき廃窯(はいよう)する窯が増えていきます。
その状況に追い討ちをかけるように震災が起こり、全ての窯が壊滅状態になり、1900年に白岩焼の窯の火は消え、130年の歴史に幕を下ろしました。
白岩焼の火が消えてから70年が経ち、江戸期の白岩焼の窯元の末裔である和兵衛窯の方々が復興を目指し始めます。
その頃、思想家の柳宗悦(やなぎそうえつ)氏が民藝運動(みんげいうんどう)を提唱し、各地の伝統工芸の素晴らしさが見直されたのです。
その柳氏と共に陶芸家の浜田庄司氏が角館に何度も訪れました。
その後、1974年に秋田県知事が浜田氏に陶土適正(とうどてきせい)の検査を依頼し、良土と認められました。
その翌年、浜田氏の助言もあり和兵衛窯が開窯(かいよう)し白岩焼が復活を果たすこととなります。
この復活した白岩焼をこれからも角館の伝統として後世に引き継いでいってほしいです。また、たくさんの人に白岩焼の良さを知って頂きたいです。
美しい白岩焼は衰退や復活を経て現代でも角館の方に愛されている
白岩焼の美しい青白い釉薬の色は顔料によるものではなく、土の鉄分と釉薬の灰が窯の中で化学変化を起こすことで現れます。
そしてこれは、この白岩の土地の土でしか現れない釉薬(ゆうやく)です。
白岩焼は、釉薬の使い分けが必要であり、温度がわずかに高ければ色が濁り、わずかに低ければ艶がなくなってしまいます。
1300度と言われる適温の範囲が非常に狭いため長年の経験を生かし、職人の手で作られています。
現在、白岩焼を作っている窯は和兵衛窯の1件しかありません。今もなお、白岩焼は角館の伝統工芸として受け継がれています。
角館の方にお話を聞くと、「昔は日常的に白岩焼を使っていたが、今では日常的には使っていない。この地に伝統工芸として残っていてくれて嬉しい」とのことでした。
この話を聞き、白岩焼は角館の方々に愛されていると知りました。
1度は消えてしまった地元の方に愛されているこの白岩焼の文化をこれからも紡いでいくことが重要だと感じました。
白岩焼和兵衛窯 所在地 : 秋田県仙北市角館町白岩本町36−2
美しい色合いをした白岩焼。
そこには、衰退した白岩焼を復活させた一軒の窯元が過去の白岩焼を現代に復活させ、今もなお白岩焼の伝統を守り続けているという物語が存在しました。
その窯元が作る白岩焼を、是非自分の目でご覧ください。