住居かつ仕事場だった合掌造り 五箇山の三大産業を学ぶ旅
富山県南砺市(なんとし)にある世界遺産五箇山(ごかやま)、と聞いてすぐ思い浮かぶものといえば、やはり「合掌造り」。実はこの建物、自然環境に合わせて造られているだけではなく、生活のために人々が行っていた産業とも深い関わりがあります。
産業を知ると合掌造りの見え方も一味違ってくるかもしれません。
この記事の目次
五箇山の三大産業「養蚕、和紙、塩硝」が発展した理由とは
山深く、人里離れた場所にある五箇山。
今でこそ多くの水田があり、9月には刈り取った稲穂の「ハサ掛けライトアップ」が行われますが、昔は稲作ではなく、養蚕などの家内手工業が中心でした。写真を見ていただくとわかるように、五箇山は深い山々に囲まれています。
長い時には11月から4月まで雪が降り続けるうえ、積雪は3m以上。さらに地滑りなども起き、湧水もありませんでした。
当時の技術では山から水を引いてくることもできず、稲作や畑には向かない土地でした。
その代わりに行ってきたのが、「養蚕(ようさん)」、「和紙」、「塩硝(えんしょう)」といった産業だったのです。五箇山の人々は、夏は塩硝や楮の栽培、冬は紙漉きをするといった工場的な形態で和紙漉きや養蚕、塩硝を製造していました。
生活と産業の場の融合が、合掌造り。ここからは、それぞれの産業から五箇山の歴史文化を紐解いていきます。
五箇山の集落で重要な資金源だった屋根裏で行う「養蚕」に触れる
五箇山三大産業の1つ目は、養蚕です。産業が行われていた生活がわかりやすく説明されている五箇山民俗館を訪れました。
養蚕は、「換金」という重要な役割をもっていました。お米が作れなかった当時はお米を買っていて、そのために必要なお金を生糸を売って稼いでいたといいます。
そんな養蚕が行われていたのは「天(あま)」と呼ばれる合掌造りの屋根裏部分です。
さっそく五箇山民俗館で合掌造りに入ってみました。広くて開放感があります。
蚕の育ちを良くするため、床をすのこ状にして1階で使っている囲炉裏の熱が届くようにしたり、天井にあえて隙間を作って光を取り込んだりしたそうです。
こちらが蚕を育てるための「蚕棚(かいこだな)」です。
これをたくさん置くために、屋根裏はどんどん広くなったそうです。
こちらが実際に使われていた製糸のための様々な道具です。製糸は女性が行う、特に重要な仕事でした。使い古された道具を見ていると、懸命に働く女性の姿が目に浮かぶようでした。
一時は五箇山の第一産業にまで発展した養蚕。しかし、戦後日本で起こった様々な変化の中で生糸は売れにくくなってしまい、養蚕業は衰退したそうです。
所在地 :相倉民俗館 〒939-1915 富山県南砺市相倉352
五箇山民俗館 〒939-1974 富山県南砺市菅沼436
年貢と生活用品に使用され五箇山を支えた冬の仕事和紙漉きとは
五箇山三大産業の2つ目は、和紙です。 和紙が担っていたのは、「年貢」の役割。 米作りに適さない五箇山では、米の代わりに和紙をつくり、献上していたそうです。
五箇山の和紙漉き産業の一年の流れは春から冬の約1年間のスパンで行われます。
春の楮の植え付けに始まります。11月に楮を刈り取り、蒸して皮をはぎます。
皮からさらに黒皮をこすり落とし、晴れた日に雪上に広げて白くなるまで約1週間、雪さらしを行う。ようやく紙の原料となる楮皮ができあがります。
ちなみに和紙は楮(こうぞ)という植物の繊維から作られます。楮の特徴は、繊維が長くて強靱で、光沢があり、和紙の特徴である薄くて強い性質を持ちます。写真は幼木ですが、成木は3mあまりにもなるそうです。
栽培が簡単なため、自然環境の厳しい五箇山でも育ちました。
乾かすとこのようになります。 多くの工程を経て、内側の白っぽい繊維を取り出します。 それを水に入れ、よく混ぜてから漉きます。
和紙漉きは合掌造りの1階で行われ、養蚕ができない冬の時期の重要な産業でした。江戸時代は主に年貢や換金作物でしたが、現代に入ってからは様々な商品が生み出されました。
こうしたお面や飾りをはじめ、筒、ぞうり、和紙でこんなにいろんなものが作れるとは、びっくりですね!
(写真提供:五箇山総合案内所)
五箇山の和紙漉きは今も続き、県や国レベルで認められています。 置物やお面、しおり、ブックカバーなど、生活を彩る工芸品が多数販売されています。
気軽に伝統に触れられ、お土産にもぴったりです。ぜひお手に取ってみてくださいね。
所在地 :相倉伝統産業館 〒939-1915 富山県南砺市相倉352
五箇山の地下に潜む軍事機密 全国でも貴重な火薬の原料・塩硝作り
五箇山三大産業の3つ目は、塩硝です。これは「火薬」の原料になります。
菅沼合掌造り集落にある「塩硝の館(えんしょうのやかた)」で、その歴史が紹介されています。
塩硝の原料はウドやヨモギなど五箇山でとれる植物と、蚕の糞でした。
これらを床下で4年間寝かせて発酵させると、塩硝土(えんしょうど)が作れるそうです。
そして、土と水と一緒に桶に入れ、その汁に灰を加えてさらに煮詰めると、塩硝ができるとのことでした。なんだか化学の授業を受けているみたいでした。
床下の断面の再現です。なんと約2mもあります!床下で作っていた理由は、まず一つは安定した気温が必要だったため。
もう一つは、五箇山の塩硝が、現在の石川県にあたる旧加賀藩の軍事機密だったためです。
塩硝は生産地が限られており、鉄砲が戦いの主流になっていた当時、武将なら誰もが欲しがりました。
加賀藩は、貴重な塩硝を幕府に秘密で手に入れるため床下で生産するように命じ、年貢として納めさせていたのです。
この作業場を確保するために、地下と1階部分もあわせてどんどん大きく広がっていったのだそうです。
所在地 : 塩硝の館 〒939-1973 富山県南砺市菅沼134
生活だけでなく産業に関しても、合掌造りには知恵が詰まっていました。
こうした産業からできた製品はどれも一級品で、生糸も和紙も塩硝も県外で高く評価され、求められました。
それは、稲作や畑ができない自然環境の厳しさを乗り越え、懸命に生きていた人々の力の結晶だと思います。