八つの池を回る前に 知って得する忍野村発展の背景を学ぶ歴史旅
山梨県富士北東山麓に位置する忍野村(おしのむら)。
名勝・忍野八海(おしのはっかい)で知られるこの村の歩みを学ぶ旅に出ましょう。
富士山、修験道者、浅間信仰、富士講、旧農家……
忍野巡りで見るもの全てを百倍楽しくしてくれる、そんな歴史旅をお届けします。
この記事の目次
修験道者の寄泊地・忍草地区 古代から続く富士信仰~忍草浅間神社~
東京駅からは、まず新幹線で三島駅まで。
そこから本線と支線を乗り継ぎ、御殿場駅へ。
御殿場駅富士山口に着きましたら、河口湖方面行きのバスで忍野入口停留所へ行き、内野方面行きに乗り換えます。
忍野八海入口のバス停で降りると、県指定天然記念物のイチイの巨木が群集する境内が見えます。
富士山の火山活動が活発だった平安時代。
西暦807年、噴火を鎮めるために創建されたのが、この浅間神社です。
同時期に、噴煙が立ち上る富士に登って霊験を得ようと考える修験者が現れ、町には登山者のための宿坊が立ち並ぶようになります。
以降、忍野一帯は観光業で栄えていくのです。
仁王門を抜けると、檜皮葺屋根・三間社流造の本殿が目に入ります。
大床の上には、それぞれの池の名前が書いてある桶が、八つ置いてありました。
八つの池は神社の社領であり、明治以前、出口池とは一本の参道で結ばれていたようです。
本殿内部には、国指定重要文化財である木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)・鷹飼(たかがり)・犬飼坐像(いぬかいざぞう)の三神像が祀られています。
二礼二拍手一礼。
細波が立つが如くはやる旅情も、心なしか穏やかに静まってゆくようでした。
忍野村に脈々と受け継がれる富士信仰の精神を、ここで感じてみませんか。
忍草浅間神社:山梨県南都留郡忍野村忍草456
八海巡礼の立役者 ~観光事業パイオニア・大友寄右衛門の功績~
出口池方面からファナック通りを歩きます。
左右には菜園や花畑。風情ある瓦屋根の一軒家も点在しています。
時は天保。大飢饉が起こり、忍野一帯でも多数の犠牲者が出ます。
混乱の中、当時流行していた富士講にあやかって村おこしを考えたのが、長百姓の大友寄右衛門でした。
信者は、富士登山の前に八つの池の水で禊をし、心身を清める。
江戸時代以前にも細々と続いていた、この八湖信仰を復活させたのです。
桂川支流に架かる石橋を渡り、しばらく進むと、右手に民宿・原の家の看板が見えます。
その敷地の入口にある石碑が、元八湖再興の碑です。
当時の艱苦が偲ばれます。
現在は民宿が立つ場所に、この碑があることを考えると、先人たちの遺産が今へと受け継がれているのが感じられます。
大友寄衛門の功績を伝えるものとして、他にも八つの池に建てられた石碑があります。
それぞれに祀られた八大竜王の名前と、彼の詠んだ和歌が刻まれています。ぜひ探してみましょう。
元八湖再興の碑(原の家) : 山梨県南都留郡忍野村忍草222
富士山麓と昔ながらの農家の景観 宿泊のまちとして一層発展する現代の忍野村
忍野八海バス停で下車します。
バス停付近の巨大な駐車場の敷地奥に「八海庭園 彦兵衛屋敷」があり、入場料は200円。
眼前には、見事な池泉回遊式庭園が広がります。
水車が目を引く東屋から見えるのは、広大な池と築200年の茅葺き屋根の母屋。
元は庄屋の屋敷でしたが、現在は改装されて民宿・ますの家になっています。
宿泊者には、忍野の湧水で育ったマス料理が振舞われます。
9月中旬、園内の植物は紅く色付き始めています。
ランドマークは古家屋だけではありません。
干しとうもろこしとわらぼっち(稲叢)です。
忍野村に農業用水路が無く、やせた土地だった頃、人々が冬と飢えをしのぐための主食だったのが干しとうもろこしでした。
また、てっぺんの笠が特徴的なわらぼっちは、藁を屋外で長期保存するための先人たちの工夫です。
茅葺き屋根のように藁をうまく重ね合わせることにより、藁が腐りません。
ヤブコウジなどを霜害から守る役目もあったようです。
現在は、どちらも農業用具としての機能は果たしていないようです。
しかし、旧農家の営みを感じ取れるような景観を残す配慮がなされていることに、心を動かされました。
彦兵衛庭園(ますの家):山梨県南都留郡忍野村忍草195
もともと、火山灰質で農作物がよく育たない痩せた土地だったと言われる忍野地域。
発展の背景には、富士山信仰と観光宿泊産業があったことを実感していただければ幸いです。
八池の美観だけとは言わず、忍野村で生きた人々の息吹も一緒に堪能してください。