薩摩の先人たちの思いが宿る重伝建の町~出水麓武家屋敷群~
約400年前、薩摩藩最大の武家屋敷群であった鹿児島県の出水麓(いずみふもと)にある武家屋敷群。国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、町の風格は今もなお当時のまま変わらずあり続けます。
出水麓のまちなみができた歴史とまちに残る遺構をめぐる歴史旅へ出かけます。
この記事の目次
島津氏率いる薩摩藩の出水武家屋敷群の歴史とは
出水武家屋敷群の歴史を知るのに欠かせない「外城制度」。
江戸時代、島津氏率いる薩摩藩は独自の行政・軍防方法である外城制度をつくりました。
領内を鹿児島城を拠点に113 の区画に割り、それぞれに地頭仮屋を設け、その周囲に「麓」という武士集落を作って、その地域の行政を管轄させます。これを外城制度といい、一朝事あるときには、そのまま麓 の武士が軍団を形成し地頭の指示にしたがって動員される仕組みでした。
薩摩藩は加賀102 万石につぐ天下第二の雄藩で、77万石といわれています。
麓の中でも隣の熊本県、肥後藩との国境に位置していた出水麓は、古くから薩摩藩の国境を防御する重要な要所であったとされています。そのため防衛の要となる出水に力を注ぎ、薩摩藩最大の麓、また集められた武士たちも強者ぞろいだったそうです。
こうして形成されてきた出水武家屋敷群は、周囲より一段高い台地上にあり、上竪馬場、竪馬場、諏訪馬場、上山崎、山崎の5つの集落で構成されています。石垣と生垣で囲まれた屋敷は、武家門を閉じれば敵兵からの攻撃を防御できる造りとなっており、敵が攻め入った際に妻子を逃すための隠し通路もあります。屋敷内で弓矢の訓練ができるようになっていたりなどまさに、陣地を兼ねた出水麓の特徴が色濃く残っています。
出水麓武家屋敷群の歴史に文化に浪漫を感じるタイムスリップ散歩旅
福岡県小倉駅から新幹線で約1時間20分。鹿児島県出水市へ、さっそく出水麓の町を訪れました。
薩摩藩最大の麓、出水。さすが軍事拠点の要所といわんばかりに、麓への入り口は狭く急な登坂4箇所のみとなっています。麓への入り口の一つである鬼坂を上っていくと、そこには風格漂う街並みが今もなお佇んでいました。空気は静かになり、まるで喧騒な現代からタイムスリップした感覚になりました。
麓は碁盤の目の形状をした作りになっており、十字路や直角の曲がり角で形成されていました。地図を持って歩かなければ迷子になりそうです。
道には、川石の石垣、椿、さざんか、イヌマキなどの生垣でできた塀と立派な武家門が続きます。
見学ができる武家屋敷は2つ。「竹添邸」と「税所邸」のふたつです。武士が生活していた様子も残る2つの邸宅は訪れる価値ありです!
歩いているだけで自分自身も江戸時代の上級武士になった気分が味わえますよ。
薩摩最大級の麓「出水麓」の歴史を学べて体験できる!出水麓歴史館
武家屋敷が立ち並ぶ一角に、出水麓の歴史を学べる出水麓歴史館がありました。町全体が博物館のようなこの出水麓で、歴史館では今日に伝わる出水の歴史と文化を紹介していました。
パネルや模型など、だれでも理解しやすいように歴史や文化が紹介されていました。
出水麓誕生のきっかけとなった、薩摩藩独自の地方支配制度「外城制度」。関ヶ原の戦い後、一国一城令が発令されましたが、外城制度を廃止することなく独自の組織体制を持ち続けたそうです。薩摩藩のプライドが垣間見える歴史を学ぶことができます。
当時の地理を理解することでより薩摩藩出水麓の歴史が深まります。案内の係の方がとても親切で、疑問に思ったことをたずねると、なんでも答えてくれます。
ぜひ散策のはじめに訪れてみてはいかがでしょうか。
所在地 : 鹿児島県出水市麓町10番39号
島津義弘が居城から移した文化財「御仮屋門」の今を知る
出水麓歴史館で出水について学んだあとは、出水武家屋敷群を散策してみましょう!
静かに透き通る神聖な空気の中歩いていると、数ある武家門の中でもひときわ大きな門と出会いました。これが県指定文化財の一つ、御仮屋門です。
御仮屋門は武家集団で構成される麓に各1つは設置されました。通常、御仮屋は地頭が一時的に滞在するため、藩主が麓内を巡視する際立ち寄るために作られたとされています。
出水の御仮屋門は、戦国時代に活躍した島津義弘(しまづよしひろ)がこの武家門を、居城していた帖佐(ちょうさ)から出水に移し、出水へ隠居して薩摩北辺の守りに任じたいと思っていたそうです。しかし義弘の移住は実現ぜず、以後この地に御假屋が置かれ、出水假屋門として今に残っています。
現在のその姿は出水小学校の校門となっていました。
<03-小学生と武家屋敷群>
御仮屋門周辺では、小学生たちが合唱する声や、遊んでいる元気いっぱいな声に溢れていました。
歴史ある重鎮な空気と、純粋で元気な子供たちの声が混ざり合い、時代の流れを感じることが出来ます。
所在地 : 鹿児島県出水市麓町210番地
ひっそりと佇む出水で暮らした先人達の知恵に触れる「五万石溝跡」
麓を散歩していると緑に覆われた巨大な穴を発見しました。五万石溝跡(ごまんごくみぞあと)です。これは江戸時代初期に造られた灌漑用の水路跡だそうです。
出水平野の田畑に水を送るため江戸時代では大切な役割を担っていました。出水市の史跡にも登録されています。
全長約20kmにもわたる用水路であり、約20年余りの歳月をかけて完成したものだそうです。
九州南部に数多く分布する火山噴出物からなるシラス台地からなる鹿児島県に用水路を作ることは当時とても大変な事だったと想像されます。
そんな江戸時代の宝だった用水路も時代を経て、ここに静かに佇んでいました。
薩摩藩は前述した通り、加賀102 万石につぐ天下第二の雄藩、77 万石といわれておりましたが、これは籾(もち)高であり、他藩なみに米高に計算すれば37 万石程度となり、農業的にみれば裕福な藩ではなかったといいます。
そのうえ、 江戸時代の武士は平均で人口10分の1だったのに対し、薩摩藩は人口の約4分の1という、多くの士族を抱えており財政面でも苦しんでいました。そのため麓の武士は、外城衆中(郷士)として、半農半士として、平時は農耕によって生計を立てていました。
この水路を使って、武士も農民も身分関係なく藩のために農耕によって働いた人々がいたのですね。
江戸時代から今も変わらず佇む出水武家屋敷群。そこには様々な人が暮らした息遣いが今でも聞こえてくるような空間が広がっていました。ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。