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織田信長の寵愛を受けた蒲生氏郷 会津若松でゆかりの地を巡る旅行へ

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    葦名、伊達、蒲生、加藤、松平と度々城主が替わった鶴ヶ城。その中でも会津の人々が名君と呼び愛してやまない君主、蒲生氏郷。氏郷は城下町を整備し難攻不落の鶴ヶ城を改築によって生み出しました。
    名君、蒲生氏郷が生きた跡を辿り戊辰戦だけではない、会津若松の歴史旅をご紹介します!

     

     

     

    五層から七層へ 鶴ヶ城の改築と城下町を整えた蒲生氏郷の功績を辿る

     

     
    会津若松の鶴ヶ城の元城主の蒲生氏郷(がもううじさと)。蒲生氏郷は1556年に近江の大名である六角家の重臣である蒲生家に産まれ幼名を鶴千代といいました。
    織田信長が戦を続ける中、人質に出され、その時に信長は氏郷の目つきを気に入り、娘婿にすると約束をします。その後13歳で初陣を果たし、一人前の武将としての門出を終え、信長は自身の娘・冬姫と結婚させました。

     

     

    その後、柴田勝家の配下として各地を転戦し浅井・朝倉氏との戦いや伊勢長島攻め、長篠の戦いなど、信長の主要な合戦でも活躍を重ねました。本能寺の変の後、豊臣秀吉に従い更に信頼を獲得していきます。秀吉とともに転戦した氏郷は、九州征伐の後に三重へ封じられて松阪城を築きました。築城の名人のいわれはここから来るのですね。小田原征伐でも自ら武働きをし、それ以前からの功績と合わせ、奥州仕置の際は会津に封じられました。

     

     

    会津・黒川の地に移った後は、城の名を蒲生家の家紋にちなんで「鶴ヶ城」と改め、七層もの天守を持つ大きな城に改築。ちなみに現在会津若松で復元された鶴ヶ城は江戸時代の五層のものだそうです。氏郷はここでも城下町の発展に力を注いでいます。
    町の名を黒川から「若松」に改め、城下町は城を中心に外堀の内側に武士、外側に町人、職人を住まわせ、さらにその周辺に寺を巡らしました。信長の経済政策「楽市楽座」を採用して、城下町の商業を活性化させ、まさに会津若松を発展させた第一人者と言えます。

     

     

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    千家再興の地「茶室隣閣」秀吉から利休の息子をかくまった過去とは

     

     

     

    さっそく蒲生氏郷ゆかりの地をめぐってみましょう!会津若松駅から、市内周遊バスの「あかべぇ」もしくは「ハイカラさん」で約5分。鶴ヶ城(つるがじょう)に到着します。
    鶴ヶ城には、天守閣と同じくらい有名な「茶室」があります。

     

     
    正式名称は「茶室麟閣(りんかく)」で、福島県の指定重要文化財です。戊辰戦争で会津藩が敗れ、鶴ヶ城が取り壊される際、一度外部へ移築され、1990年に元の場所である鶴ヶ城内へ移築し、現在に至ります。

     
    【蒲生氏郷と茶室麟閣の関係とは】

     
    実は茶室麟閣、蒲生氏郷ととっても密接なつながりがあります。
    会津の基礎をつくった蒲生氏郷は、優秀な武人であるとともに、当時を代表する文化人でした。特に茶道に親しみ、千利休を師とするほどだったそうです。
    氏郷は豊臣秀吉に追い詰められ、自害を迫られた千利休の自害後、息子の少庵を会津にかくまいました。その少庵のために、茶室麟閣は建設されます。さらには、利休の茶道が途絶えるのを惜しんだ氏郷は、徳川家康とともに千家復興を秀吉に願い出ました。結果として、秀吉の怒りは解け、少庵は京都に帰って千家を再興することに成功。千少庵の孫により、武者小路千家、表千家、裏千家の三千家が興され、今日の茶道の隆盛に至るのです。氏郷無くしては、この茶道は今に伝えられていなかったかもしれません。

     

     

    【茶室麟閣の楽しみ方】

     

    <03_aizuwakamatsu:お茶室>

     
    茶室麟閣では、一席500円でお抹茶とお菓子を楽しむことができます。お抹茶と一緒に出てくる薯藷饅頭(じょうようまんじゅう)は、小豆の皮を取り除き炊きあげた皮むき餡を丹念にすりおろした「つくねいも」と米粉の皮で包んで仕上げられています。現代に残る歴史的な場所で、鶴ヶ城を眺めながら、かつての人びとと同じような時間を過ごす、これほど贅沢な時間はありません。

    ここではお茶室以外にも、趣きのある建物を多く見ることができます。茶会に先立って客が連客と待ち合わせたり、身支度を整えて、席入りの準備をするための寄付や、蹲踞(つくばい)という俗界の汚れを払い、清らかな心で席入りするために、手を洗い、口をすすぐための手水鉢と役石などでできた水場などが残ります。

     

    <04_aizuwakamatsu:中門>

     

     
    ぜひゆっくりと、当時に想いを馳せながら、至福のひとときを過ごしてみてください。

    所在地 :〒965-0873 福島県会津若松市追手町1-1

     

     

     

    会津若松の名君 文武両道に長けた名将蒲生氏郷のお墓参りに興徳寺へ

     

     

     

    <16_aizuwakamatsu:蒲生氏郷の墓案内石碑>

     

     

    最後に訪れるのは、「蒲生氏郷(がもううじさと)の墓」です。

    現在は神明通りの、この石碑を目印に曲がった、興徳寺の本堂東に眠っています。

     

     


    <17_aizuwakamatsu:蒲生氏郷の墓入口>

     

     

    門には大きな菊のご紋があり、通りの喧騒が嘘のように、静かな緑が広がります。

     


    <18_aizuwakamatsu:蒲生氏郷の墓>

     

    これが、蒲生氏郷の墓です。墓は、空風火水地の5文字が刻印された五輪塔で、京都大徳寺の本墓から分骨したと言われています。

     


     

    <19_aizuwakamatsu:蒲生氏郷の歌碑>

     

     

    また、歌の才能もあったと伝えられる蒲生氏郷。
    墓前には、「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の辞世の歌碑があります。この辞世の歌も高い評価を受けているものなのです。
    その内容は「風など吹かなくても、花の一生には限りがあるので、いつかは散ってしまうのです。それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのですか。」
    40歳の若さで病死した氏郷。その無念さが、美しく詠み込まれている歌に思わず立ち尽くしてしまいました。

    立派な墓地で、ベンチもいくつか設置され、くつろぐ人や散歩をする人もいます。今でも忘れられることなく、会津の人びとを見守る蒲生氏郷なのでしょう。ぜひ会津に訪れた際には蒲生氏郷ゆかりの地を巡ってみてはいかがでしょうか。

     

     

    所在地 :〒965-0871 福島県会津若松市栄町2-12

     

     

     

    蒲生氏郷ゆかりの地をめぐる旅はいかがでしたか。戊辰戦争の際に、君主への忠誠を貫き通し、最後まで戦った松平容保だけではなく、会津城下町の基盤を作った蒲生氏郷も会津の人々にとって名君として愛されているのですね。
    ぜひ会津に訪れた際には、蒲生氏郷ゆかりの地をめぐってみてください。

     

     

     

     

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