第三番札所 亀光山 釈迦院【金泉寺】四国八十八箇所霊場を徹底解説!
高野山や東寺を賜ったことで有名な空海。出身は讃岐(現在の香川県善通寺市)とされ、四国の各地で修行を行いました。
その御跡である四国八十八箇所霊場のひとつ金泉寺。このお寺は3番札所とされており、井戸に深い関係があるお寺です。歴史を紐解く歴史旅をご紹介します。
金光明寺から金泉寺へ!金泉寺が成立した歴史とは?
まずは金泉寺の歴史をご紹介します。
古くは聖武天皇の勅願で行基菩薩がご本尊を刻み、金光明寺(こんこうきょう)と称していました。
弘仁年間(810〜24)空海が巡錫(仏教の僧侶が布教や修行のために各地を巡り歩くこと)した際に、黄金井の霊水がわき出たので、寺名を金泉寺に改めたといいます。
その後亀山天皇(1249〜1305)が金泉寺を崇拝し、京都の蓮華王院にならった三十三間堂を設立します。
さらに千手堂を安置して、山号を亀光山と称したのだとか。
天皇は勅願の道場として経蔵(経典や仏教に関する書物を収蔵場所)を造り、日本各地から学僧を集めて講演を行い、寺は大いに栄えました。
その頃の規模を知る資料として、東門、南門等が記された古図面が寺に伝わっています。
また皇室との関係はそれ以降も深く、南北朝時代に南朝の長慶天皇が晩年をこの寺で過ごし崩御されたという伝説も残っています。
仁王門をくぐり、極楽橋を渡ると正面に本堂が見えました。
ご本尊の釈迦如来坐像と、脇仏に阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像が安置されています。
大師堂もあり、さらに本堂の裏手にある多宝塔も美しく見とれてしまいました。
おすすめですのでぜひ忘れずに見学ください。
金泉寺に伝わる!源平合戦、源義経と弁慶に関する伝説とは
さて、金泉寺ですが、天皇家とのつながりが深かっただけでなく、源義経とも関わりがあるお寺であることをご存知でしょうか。
源氏と平家が真正面から戦った寿永4年(1185)の冬、平家を打ち落とそうと屋島へ向っていった源義経一行が、途中この金泉寺に立ち寄り、戦に勝つ事を聖観音に祈願したのだとか。
ちなみにこの記録は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて成立したといわれる『源平盛衰記』に残されています。
本堂の左手にある「慈母観音子安大師」は、義経の祈願所だそうです。
さらに奥にある寺務所の前には、弁慶の力石があります。
戦の要となる弁慶の力が弱っていないかどうか確かめるために、力石を持ち上げさせたといいます。
ご詠歌:極楽の 宝の池を 思ただ 黄金の泉 すみたたえる
最後に、金泉寺の御詠歌(ごえいか)をご紹介します。
ー極楽の 宝の池を 思ただ 黄金の泉 すみたたえるー
はるか昔、この土地は日照りによって水不足に苦しんでいたといいます。
そんなときに空海がこの井戸を掘ったのだとか。
日照りに苦しむ住民のために掘られた井戸は今も八角観音堂の右隣に「長寿をもたらす黄金井戸」として、黄金地蔵とともに大切にされています。
ちなみにこの井戸を覗き込み、影がはっきり映れば長寿、ぼやけていると短命という言い伝えがあります。
私は怖くてのぞくことができませんでした。。。
さらに、金泉寺のお地蔵さんは北向地蔵と呼ばれ、首から上の病気に霊験があると言われていますので、ご自分の悪い場所と同じところをなでるといいそうですよ!
四国八十八ケ寺霊場の中には、他にも弘法大師が掘ったと伝えられる井戸があります。17番札所井戸寺の「面影の井戸」、などなど!ぜひ訪れてみてください。
四国八十八箇所霊場、金泉寺をご紹介しましたいかがでしたか。
弘法大師が掘ったという黄金の井戸伝説や、源義経が戦勝祈願をしたという観音堂など、源平合戦にまつわるエピソードが残っており見どころ満載なお寺です。
ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。