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ジョン万次郎資料館で学ぶ!万次郎の生涯と雑学のすべて〜1〜漂流編〜

  • 、閉鎖的だった日本を世界へ開くことに尽力したジョン万次郎。そのきっかけは無人島へ流れ着いたことから。
    満身創痍でアメリカの捕鯨船に拾われ、捕鯨船の重要な役割を担い大活躍、そして帰郷後、日本を世界へと導きました。彼なくしては今の日本が無かったとも言えるのではないでしょうか。彼の人生を追う旅をご紹介!

     

     

     

    母の手に負えない活発少年””船乗りになるきっかけのエピソードとは

     

     

     

     

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    ジョン万次郎こと中浜万次郎は、文政10年(1827年)1月1日に土佐の中浜、今の高知県土佐清水市中浜で貧しい漁師の次男として生まれました。
    9歳で父をなくした万次郎は、近所に出稼ぎに出ていました。ちなみにこの頃から母親の手に負えないくらいに活発だったようです。

     

     

     

    その頃のエピソードが展示されていました。
    ある日のこと、万次郎は石臼の中に砂利を入れて米を撞くと、早く精米できることに気付きます。しかし家の主人は大激怒。砂利を入れると粉々になる米が混じって品質が下がってしまうからです。万次郎は認めてもらえず家を飛び出してしまいました。

     

     

     

     

    そんな手に負えない万次郎少年、そんなときに大浜の港には宇佐(土佐市)の船が入っていました。
    万次郎の母は、彼を見習いの漁師として雇ってもらえないか船頭の筆之丞(ふでのじょう)に交渉します。中浜にある「中浜萬治郎翁記念碑」の前には今でも船に乗ることになったきっかけの石臼が置かれているそうです。

     

     

     

     

    活発少年”万次郎”5人の仲間と伊豆諸島の南で無人島へ上陸その生活とは

     
    さて、無事に筆之丞の船で働かせてもらうことになった万次郎少年ですが、ここで有名な無人島遭難事件が起こります。天保12年(1841年)1月5日、14歳になった万次郎は5人の仲間(筆之丞37歳、重助24歳、五右衛門15歳の三兄弟と寅右衛門25歳)と共に宇佐の西浜から延縄漁に出ました。

     

     

     

    出港から3日目、船は足摺岬の東の沖合にいました。午前10時頃強い西風が吹き、漁を止めましたが、すぐに風がおさまったのでまた再開。すると突然に北西の風(あなせ)が激しく起こり船が言うことを聞きません。夜になりやっと岬に近づいた所、櫓船の櫓が折れてしまいます。さらに北西の風によって船は南東方向に流されてしまいました。

     

     

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    1月8日、室戸岬が見えます。さらに紀伊半島の山が見えたかと思うと船は黒潮に乗りさらに東へ。13日の正午頃。東南の方向に島影を見つけました。
    14日いよいよ上陸。しかしその際に船は波に飲まれ、重助は怪我を負います。

     

     

     

    上陸したのは足摺岬から750kmも離れた鳥島という無人島。伊豆諸島の最南端に位置する火山島だったのです。
    不幸中の幸いだったのは、アホウドリが沢山いて、さらに人を恐れる鳥ではなかったこと。なんとか食をつなぐことができました。

     

     

     

    島に来てから143日、ついにアメリカの捕鯨船、ジョン・ハウランド号の影を見ました。

     

     

     

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    船乗りから捕鯨船の鯨捕りへ 万次郎アメリカでの生活とは

     

     

     

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    ジョン・ハウランド号に乗り込んだ万次郎達はすぐに回復し、船の仕事を手伝うようになります。
    救助されたものの当時の日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づける状態ではありませんでした。さらになんと、帰国できたとしても命の保証は無いという時代だったのだとか。
    やがて船長は5人をハワイのホノルルに降ろしました。
    その際に万次郎をアメリカへ連れて行き、育てたいと筆之丞に相談します。筆之丞は「万次郎の心次第です」と答えたそう。

     

     

     

     

    もちろん活発な万次郎は二つ返事で鯨捕りになるためにアメリカへ向かうことになりました。このときに船名にちなんだジョン・マンという愛称をつけられました。高知の人はジョン万次郎のことをジョンマンと親しみを込めて呼ぶ方が多いです。

     

     

     

     

    アメリカ本土に渡った万次郎はニューベッドホードへ。※ニューベッドホードは『白鯨』の中でも「全米どこを探してもこんなに趣味の良い家が立ち並び、緑豊かな町は見つからない」と絶賛されています。

     

     

     

     

     

     

    命の恩人であるホイットフィールド船長の養子となり、マサチューセッツ州フェアヘーブンで共に暮らしました。学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びます。

     

     

     

     

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    卒業後は捕鯨船に乗ることになり、捕鯨船の中で最も重要な仕事である、銛打ちの役職をもらいます。
    「死んだクジラ、さもなくば壊れたボート」と言われるほどにクジラを仕留める仕事は非常に重要な役割です。生きるか死ぬかの戦いなのですね。
    その仕事を日本からきた青年に任すことができるなんて万次郎の努力が伺えますね。

     

     

     

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    ジョン万次郎の生涯を解説してきましたが、いかがでしたか。ジョン万次郎資料館に行くと、ここに書ききれなかったさらに詳しい説明や模型などもあります。ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

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