重伝建選定!戸隠神社から高距御師集落「戸隠」の街並みを徹底解説!
戸隠連峰や飯縄山が連なる長野市北西部の山岳地帯に位置する戸隠。標高1000mを越える場所に位置し豪雪地帯でもあります。
今回は戸隠神社だけでない、重要伝統的建造物群保存地区にも保存された戸隠の町並みの歴史や魅力についてご紹介します。
この記事の目次
重伝建に選定!戸隠中社・宝光社地区の街並みと発展の歴史とは
平成29年(2017年)2月に重要伝統的建造物群保存地区に選定された戸隠中社・宝光社地区の街並み。
戸隠地区は、標高1000m以上という高地に位置しており、戸隠神社を中心とした「高距信仰集落」とされています。
「高距信仰集落」とは標高の高い信仰集落のこと。なんと日本全国に多くある宿坊群として初めての選定となりました。
ちなみに信仰集落という言葉はあまり聞きなれませんね。
それは、比叡山や高野山といったような世間とは隔離された施設を中心に修行を行うといったようなものではなく、山岳修験道の聖地としての一面や宗教者以外の生活の場としての集落が確立されているというものです。
高野山や奈良の吉野には今でも女人禁制に関する史跡が残っていますよね。
そういった側面は無く、人々の生活の場が作られたことによって、全国的に見ても珍しい集落だったようです。
いまもこうして宿坊、石垣、生垣、在家と呼ばれる農家、職人などの住居と一体となって歴史的景観を今に残していることは大きく評価されました。
そうして重要伝統的建造物群保存地区の選定に至ったのだそうです。
なぜ標高1000mに町が!?戸隠の街並みと特徴をご紹介!
重伝建に選定されたエリアは73ヘクタールを越えます。
その理由は、古くからの戸隠信仰のものと近世以降の、信州を中心として各地に形成された戸隠講の参詣者のための宿坊が発展したことにあります。
国内有数の宗教施設でもある善光寺へ戸隠で結ばれ、戸隠と善光寺の両詣での信者も増加するなどといった宿坊が大きくなっていきました。
ここで重伝建に選定された街並みの特徴を細かくご紹介していきます!
中社と宝光社の境内と宿坊群を中心とする門前町と、両社をつなぐ道(神道)などの範囲が選定されており、仁王門跡の内側の参道沿いに宿坊群があり、仁王門跡の外側から宿坊群の周縁に農家などの在家の住宅が並びます。
それぞれの在家は、もともと茅葺屋根で平入りの家の形で雪対策に軒が広く、床を高くするといった特徴があります。
宿坊はお客様をもてなす客殿部と庫裏部(僧侶の居住する場所)からなっており、神前の間では現在も戸隠講の参詣者のための祈祷が行われています。
お庭には高地の特徴でもある高山植物が植えられている所も多いそうですよ。
戸隠神社になぜ宿坊群が!?神仏習合と神仏分離の歴史を徹底解説!
戸隠の歴史をご紹介します。
この場所は古くから長野盆地に豊穣をもたらす裾花川の水源地でもあり、水の神や豊穣の神としても信仰を集めていました。
ところで、戸隠といえば戸隠神社の奥社にある杉並木と赤い門の風景を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
しかし、重伝建に選定された街並みは宿坊。宿坊とはお坊さんが修行の際に寝泊まりをしていた場所です。
神社に宿坊…なぜでしょうか。
歴史をさかのぼってみましょう。
平安時代の中期になると修験道の一大霊場として全国に知られるようになります。神仏習合寺院「戸隠山顕光寺」が成立します。
鎌倉時代の後期までには奥院、中院、宝光院が整備され、修験者である衆徒が僧坊を構えるこうになります。
戦国期には、武田信玄と上杉謙信の対立に巻き込まれ一時衰退してしまいますが、のちに上杉景勝によって再興されました。
明治維新により神仏分離政策がとられ、現在のように戸隠神社へと姿を変えました。
戸隠地域の町並みの形成についてご紹介してきました。いかがでしたか。
戸隠といえば戸隠神社や奥社の風景を見ておそばを食べて終わってしまいがちですが、それでは非常にもったいないです。
ぜひメインストリートから1つ中に入った道などで町並みや建築の特徴を楽しんでみてはいかがでしょうか。