京都の穴場スポット西山 西国第二十番札所 善峯寺の魅力を徹底解説
善峯寺は、釈迦岳(631m)の山頂、中腹に位置し、3万坪の広大な敷地を持ちます。
全盛期には後花園天皇によって伽藍が改築され、さらに52もの僧坊があったといいます。
季節ごとに楽しめるお寺であり、歴史旅にはぴったりの5代徳川家将軍徳川綱吉の母である桂昌院にまつわる歴史も多く残っています。
この記事の目次
平安時代 源算上人によって建立された善峯寺 なぜこの場所にできたのか
平安時代中期の長元2年(1029)源算上人が小堂に御自作の千手観音を奉安して、阿智坂の法華院と号したのが始まりです。
源算は当時延暦寺で優秀な僧侶として有名だった恵心僧都(えしんそうず)と尊称される源信の弟子として修行を重ねました。
その後独立し、この土地にお寺を建てたのです。
当時は延暦寺や高野山の金剛峯寺のように山の中にお寺を建てて、世俗から離れた場所で厳しい修行を積むことが僧侶の理想の姿だったようですね。
善峯寺のご本尊は十一面千手観世音菩薩。西国三十三ヵ所第20番札所となっています。
ちなみに当時のお寺というのは天皇や貴族を味方につけ、お寺を経済的に守ってもらうことが非常に重要なことでした。
源算ももちろん貴族の期待に応えました。
あるとき貴族達から雨乞いの依頼を受けたそうです。その際に見事に雨を降らせたのだとか。
その功績が称えられて、当時の天皇である後一条天皇に源算の建てた寺に善峯寺という名前が与えられました。
善峯寺の魅力を徹底解説!後鳥羽天皇宸筆の山門に遊龍の松とは
扁額の寺号は第82代 後鳥羽天皇宸筆の謹写と伝えられています。
さらにこの山門がなんとも立派で思わずその場で見とれてしまいました。
壮大な山門を潜り右手の高台には推定樹齢600年を数える天然記念物「遊龍の松」があります。
横に長く見事な幹を伸ばしており、階段を上る際にはくぐらねばなりません。
下から見る松もまた素敵でした。
さて、平安時代から守られてきた善峯寺ですが、その後の時代はどうでしょうか。
室町時代には、後花園天皇が伽藍を改築し、当時はなんと52の僧坊がありました。
しかし応仁の乱の兵火で焼失してしまいまいます。
江戸幕府5代将軍徳川綱吉の母「桂昌院」が善峯寺を愛した理由とは
江戸時代になると善峯寺は江戸幕府3代目将軍の徳川家光の妻、さらには生類憐みの令を出したことで有名な5代目将軍の徳川綱吉の母である桂昌院(けいしょういん)という女性が経済的に支えました。
しかしなぜ多くのお寺がある中で桂昌院が支えたお寺が善峯寺だったのでしょうか。
それは出生の話までさかのぼります。
将軍家の妻といえば各地の大名の娘や貴族からの出身が多いですが、桂昌院はなんと京都堀川西藪屋町にある八百屋の主人、仁右衛門の娘、お玉。
桂昌院の父親は桂昌院が生まれる前に、善峯寺に参拝して女の子の子供が欲しいと願いました。
その願いが通じ、桂昌院が生まれ、玉の輿に乗って徳川家光の妻にまでなり、さらに将軍の母親にまで上り詰めます。
桂昌院は自分の恵まれた人生と、父親の願いを叶えてくれた善峯寺に感謝の想いを込めて恩返しをしていたのですね。
「たらちをの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏」
これは、桂昌院が善峯寺の薬師如来に奉じた歌です。
「たらちを」とは実父のことを表します。実父が願いを込めたお寺を、自分自身も信仰を忘れずにいるという心を表した歌ですね。
善峯寺は玉の輿に乗ったお玉(桂昌院)にあやかる「出世薬師」としても信仰されています。
善峯寺の歴史旅をご紹介してまいりしましたが、いかがでしたか。近くには十輪寺もありぜひセットで訪れることをおすすめします。
京都の主たる観光スポットとは違い、ゆったりと楽しむことができる善峯寺。
ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。