京都の古刹 善峯寺から徒歩20分!在原業平が愛した十輪寺の魅力
平安時代の歌人で美男子として名高い在原業平が、その晩年を過ごしたことが知られ、なりひら寺と称される「十輪寺」。境内には美しいしだれ桜や、珍しい御輿をかたどった本殿など魅力が盛りだくさん!
今回はこの貴族や歌人たちが楽しみ歌ってきた大原野の古刹「十輪寺」をご紹介します。
この記事の目次
【小塩山 十輪寺】の由緒や山号の意味とは?歴史と雑学とともにご紹介
天台宗 小塩山 十輪寺。
この山号は小塩山(おしおやま)と読みます。
在原業平の「大原や小塩の山もけふこそは神代のことも思ひ出づらめ」(『伊勢物語』第六段「芥川」)
※(大原野において、この小塩山のふもとにある氏神様も、藤原氏出身の東宮の母の御息所が参拝になった今日のこの日には神代のことも思いだしているでしょう。)
の歌により、この一帯の小塩の地名が生まれたのだとか。
十輪寺のご本尊は、伝教大師(最澄)が作ったと伝えられる延命地蔵菩薩(腹帯地蔵)です。子授けや安産に効果があるといわれています。
ちなみに創建の歴史は平安時代まで遡ります。
喜祥三年(850)、文徳天皇は、后である染殿皇后(藤原明子)に世継ぎが生まれなかったため、天台宗の開祖・最澄作の延命地蔵菩薩を安置し、世継ぎ誕生を祈願し建立しました。
その後、なんとめでたくお世継ぎになるお子(のちの清和天皇)が誕生!
以後は、文徳天皇の勅願所(時の天皇・上皇の勅命により、鎮護国家・玉体安穏などを祈願する神社やお寺のこと)となりました。
その後、後藤原北家(花山院家)が帰依することとなり、菩薩寺となりました。
なぜ御輿型に作られたのか?江戸時代中期に作られた本堂の秘密とは
ゆるやかな曲線を描く本堂の屋根は、江戸時代中期、1750年に再建されました。
鳳輦形(ほうれんがた)と呼ばれ天皇が乗った輿のような曲線形の屋根を乗せ、まるで御輿のよう。
ご本尊をお祀りする内部には狛犬のような彫刻もあり、お寺と神社が融合した珍しい作りで、神仏習合の名残が残っています。
ちなみになぜそのような形にしたのでしょうか。
実はこの本堂を再建した、藤原北家の系譜を引く花山院家は、天皇中心の世の中が再び訪れることを願っていました。
そのために本堂の形を鳳輦形に似せたのだそうです。
また、本堂内部の天井の彫刻には獅子や獏(ばく)などが組み込まれ、その独特の意匠には目を見張ります。
ちなみに柱は組み込み式で、釘は使われていないそうですよ。
業平桜とお庭の楽しみ方とは?庭に秘められた先代たちの想いに触れる
本堂の隣には高廊下・業平御殿・茶室に囲まれた小さなお庭が続きます。
「立って見る」「座って見る」「寝て見る」と3通りの見方で趣の違いを楽しめることから、その名も「三方普感(さんぽうふかん)の庭」。
お庭が造られたのは江戸時代。
当時は武士が権力を持ち、公家は財力に乏しかったことから、豪華な庭園を造ることが叶いませんでした。しかし藤原の公家たちは、小さな空間でも見方を変えることで様々に楽しもうと、このお庭を考案したそうです。
庭の真ん中に植えられた樹齢約200年の枝垂れ桜「業平桜」。
『古今和歌集』で「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」と詠んでいます。
※(この世の中に、全く桜というものがなかったなら、春を過ごす人の心はどんなにのどかであることでしょう。)
裏山にある塩竈の跡。
これは在原業平が、かつての恋人・藤原高子が山を隔てた大原野神社に参詣したおり、竈で塩を焼き煙に自分の思いを託したという逸話の名残りです。
京都洛西にある小塩山十輪寺をご紹介してまいりましたが、いかがでしたか。
随所に見られる在原業平の面影や、時代の中で様々な人の想いを感じることができるまさに歴史旅スポットにふさわしい場所ではないでしょうか。
ぜでお出かけの参考にしてみてくださいね。