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四万十川だけじゃない!安政の大地震の記憶が残る名勝地「入野松原」

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    高知県幡多郡にある黒潮町。名勝入野松原や入野の浜が有名なこの場所には、南海トラフにまつわる言い伝えや、長曾我部元親に関する歴史が残ります。
    先人たちが残した思いを感じる歴史旅をお届けします。

     

     

     

    四国の猛将!長曾我部元親が家臣に植えさせた松が今も残る入野松原

     

     

     
    春になるとウミガメが卵を産みに来るほどに美しい入野海岸。入野松原の起源は、1576年から1580年とされています。
    谷真潮の『西浦廻見日記』には、「天正中、長曾我部元親の重臣、谷 兵衛忠澄が中村城代であったとき、罪因に課して植えしめたものと云う」と記されています。

     

    01_hata入野松原

     

     

     

    長曾我部元親が植えさせた説がある中で、『土佐物語2の四国軍記全』によれば、長曾我部元親が入野に立ち寄った際、松原を称賛していることから、それまでに松原は以前にもあり、谷 兵衛忠澄が行ったのは、補植とも伝えられているようです。
    こうした浜と町の間に植えられた松は、塩害から町を守る役割を持ちます。

     

     

     

    ずっと植え付けられている松林はとても美しく、戦国時代よりも前から変わらない当時の様子を思い浮かぶようです。

     

     

     

    先人たちが残した津波の足跡、賀茂神社に残る「安政津波の碑」

     

     

    02_hata_加茂神社

     
    高知県の幡多郡にある黒潮町は近年南海トラフ地震が起きた際に34mもの津波がくると発表されました。
    実はこの予想されている津波の被害は、過去数百年ずっと伝えられてきた歴史があります。

     

     

     

     

    1707年(永宝4年)に起こった、潮岬沖の海中を震源地としたマグニチュード8.4という大地震は、日本全土にわたって大きな被害を及ぼし、高知県でも2千人に近い死者数をだし、1万人以上の家屋を失いました。
    当時の様子が今に伝えられている場所があります。

     

     

    長宗我部元親とも関連のある入野松原。この中に佇む加茂八幡宮。この境内には、安政津波を記録として残す碑が残されています。

     

     

     

    こちらが安政津波の碑です。

     

    02_hata_安政津波の碑

     

     

    安政元年、11月5日(1854年12月24日)、午後4時過ぎに、大地震が起こりました。
    次いで大津波が押し寄せました。

     

     

     

    蛎瀬川付近より採取した砕石に碑文が刻まれており、碑は、安政4年、後世への警告を念じ、建立され今に残ります。

     

     

     

     

    「安政津波の碑」の内容を徹底解説!

     

    安政津波の碑に書いてあることの訳を記しました。

     

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    碑文
    嘉永七甲寅の歳十一月四日昼微々の震動有潮海滑に流れ溢る土俗是を名て鈴鳴と云う是則海嘯の兆也其

    (嘉永7年(1854年)11月4日の昼、かすかな地震がありました。潮がなぎさに満ちてきて、俗に鈴波と呼んでいます。これは津波の前兆です。)
    翌五日朝土俗海嘯に至に満眼の海色洋々として浪静也欣然として家に

    帰り平素の業を事とす時に申剋に至て忽大震動瓦屋茅屋共崩家と成満眼に全家なし

     

    (翌日11月5日は何事もなく日常生活に復帰しましたが、申の刻(午後4時)頃大地震が起こり、瓦葺きの家も茅葺きの家も倒壊し、見渡す限り建っている家は1軒もありませんでした。)
    気埃濛々として暗西東人倶に後先を争ふて山頂に登山

     

    (土埃がたちこめるなか、人は競って山の頂上を目指して登りました。)

     

    上より西川を見るに西牡蠣瀬川東吹上川を漲り潮正溢る

     

    (牡蠣瀬川、吹上川に潮がみなぎりました。)

     

    是即海嘯也最初潮頭緩々として進第二第三相追至第四潮勢最猛大にして実に胆を冷す家の漂流する事数を覚ず通計に海潮七度進退す

     

    (津波の来襲です。津波は第一波はゆっくりと進み、第二波、第三波がそれを追いかけました。

    第4波で最大となり夜になるまでに7回波が襲ってきました。)

     

     

    初夜に至て潮全く退く園は砂漠と成り田畛更に海と成る当時震動する事劇しく曽聞宝永四丁亥歳十月四日も同然今
    に至りて一四八年今此石此邑浦の衆人労を施して是を牡蠣瀬川の辺より採て此記を乞来是
    を後人に告んが為ならん鈴浪果して海嘯の兆なり向来百有余年の後此言を知るべき也

     

    (庭も水田も海になりました。かつて宝永4年(1707年)10月4日にも同じことがあったと聞いていますが、それ以来148年目に当たります。

     

    村人たちは牡蠣瀬川の石を取りこの石碑をつくって後世の人に警告を残すことにしました。鈴波は津波の前兆です。今後100年あまりの後の世に生きる人は、この警告を知っておくべきです。)

     

     
    鈴鳴は、津波の前兆を意味します。
    津波が来るので注意するようにと構成に文章を残してくれているのですね。
    後世に生きる私たちのため、二度と同じ被害を被ることがないようにと、先人たちのおもいを感じました。

     

     

    大阪にも同様の碑が残っています。大正橋東詰(北側)にある安政2年(1855年)7月建立の安政大津波碑だそうです。
    大地震があった後には必ず津波が来る。先人たちの思いをつなぎ、命を守る行動が取れるように努めたいですね。

     

     

     

    ご紹介したような碑は日本全国にも残されています。
    津波石は、津波によって海中から岸に打ち上げられた巨大な石であることが多いらしく、石碑の警告通りに集落を山へ移した地区などは東日本大震災などでも被害がなかったようです。
    先人たちがのこしてくれた警告をしっかりと守り、紡がれていけることを祈っています。