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いくつも時代を無傷で乗り越えた「姫路城」の軌跡をたどる!

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    兵庫県姫路市にある姫路城。世界遺産にも登録された日本の国宝ですが、今残っている姫路城の姿は、関ヶ原の戦いの後に建てられたことをご存知でしょうか。実は姫路城は、多くの歴史を乗り越えてきたお城の一つ。姫路城がたどってきた歴史をご紹介いたします。

     

     

    姫路城の築城には2つの説が。赤松貞範か?黒田官兵衛の父か?

     

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    姫路城は、現在の姫路市街の北にある姫山という小高い丘に前身となる城が築城されました。

    築城のタイミングには二つの説があります。

     

     

     

    有力とされている説は、1346年に播磨国(兵庫県南西部)の大名「赤松貞範」が姫路城の基礎となる城を築いたという説。一方で、この時築かれたものは砦のような小さなものだったとして、城を築いたのは16世紀頃の黒田重隆(しげたか)、息子の職隆(もとたか)らであるという説もあります。

     

     

     

    黒田家の有名武将といえば、豊臣秀吉の天下統一をサポートした軍師「黒田官兵衛」ですよね。職隆の息子が官兵衛です。

     

     

    秀吉が織田信長に中国地方攻めの命を受けたとき、拠点としたのが姫路城でした。姫路城は中国地方で猛威をふるっていた毛利氏と、侵略を進める織田側のほとんど中間地点にありました。

     

     

     

    そんな重要な位置にある姫路城を当時の城主だった官兵衛は、秀吉に自ら差し上げたのだそう。織田側に着くという意思表示ですね。天才・黒田官兵衛には織田側、ひいては秀吉が将来の天下人だということが見えていたのでしょうか。

     

     

    関ケ原の戦いのあと。今の姫路城は徳川VS豊臣の備えによって築城された!

     

     

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    冒頭でもお伝えしましたが、現在の姫路城は、関ケ原の戦いの後に築城されました。

     
    関ケ原の戦い以降も徳川家と豊臣家の溝は深まるばかりで、衝突を予測していた徳川家は武器や兵器を蓄えたり、江戸城・彦根城・名古屋城など多くの城の建築・再築を進めたりしていました。実際に、後に1614年と1615年に大阪の陣が起こりますね。

     

     

     

    姫路城も例外ではなく、1600年池田輝政(いけだてるまさ)が城主になると、徳川家康から「西国(九州、中国、四国)に多く残る豊臣方の大名たちを牽制できるような城を築きなさい」という命令を受けます。そこで池田輝政は姫路城の大改修を行いました。

     

     

     

    9年間がかりの大事業でしたが、五重の大天守を中心とした天守群が築かれるなど、今日の美しい姫路城の姿ができたのです。しかし池田輝政は、元々豊臣方の人間でした。なぜ家康から一国を授かることができたのか?それが分かるエピソードがあります。

     

     
    改修の際、「地形に恵まれていない姫路城は移転したほうがいい」という家臣たちの意見に対し、輝政は「それは籠城することを考えているからだ。打って出れば何も問題はない」と言い放ったそう。この強気な姿勢が家康に評価されて、西国牽制の重要ポストに置かれたそうです。

     

     

     

    また少し余談ですが、輝政は家康の次女をお嫁にもらっていて5男2女をもうけるほどの円満夫婦でした。これに対して徳川の家臣、福島正則(ふくしままさのり)が、関ケ原で特に武功をあげていない(西軍の抑えに従事していたため)輝政に「我らは槍先で国をとったが、お主は一物で国をとったのよ」と言ったそうです。これに輝政は「いかにもわたしは一物で国をとった。だが、もし槍先でとれば天下を取ってしまったからな」と言い返したんですって。

     

    この強気。

     

    余談でした。

     

     

     

    戦争の時代。空襲の爆撃からも姫路城は守られた。

     

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    時代は近代へ。

     

     

     

    1945年の日本対アメリカの太平洋戦争中、姫路には軍の施設が多く置かれていて、また軍需産業の拠点にもなっていました。
    軍の拠点ということは、当然爆撃の対象になっていた姫路。まちのシンボルである姫路城の美しい白漆喰はかえって目立つのでした。

     

     

     

     

    そこで空襲から逃れるため、偽装網と呼ばれる黒く染めた網で城を覆いました。その跡は今も目にすることができ、姫路城西の丸百間廊下に網をかける時にフックにしたL字の釘が残されています。

     

     

     

     

    案の定、1945年7月3日の姫路空襲で城下は焼き尽くされてしまいます。城にも着弾がありましたが、不発弾や迅速な消火によって城は守られました。大天守内に落ちた不発弾を城外に運び出し処理したのが、当時見習士官だった鈴木頼恭さんという方です。いつ爆発するかわからない不発弾を運び出すのは、想像もつかないほどの勇気がいる行動ですね。

     

     

     

     

    当時のアメリカ軍爆撃機「B-29」の機長アーサー・トムズは偽装網をかけられた姫路城のことを、池や沼だと思い攻撃しなかったと言っています。

     

     

     

    実際には、城内に数弾の着弾がありましたが、城内で爆発することはなく城の焼失は免れました。空襲の翌日の朝、無傷で立ってくれていた姫路城の姿を見て、市民たちは涙を流したそうです。姫路城は、ほとんど奇跡と言ってもいい幸運で、美しい姿を私たちに残してくれているんですね。

     

     

     

     
    いかがでしたでしょうか?簡単ではありましたが、姫路城の軌跡をご紹介しました。

    戦国時代から明治維新をむかえ、激しい戦争を乗りこえてきた姫路城。乱世を耐えぬいたその力強さを、平和を象徴した純白の姿から感じることができます。国宝5城のひとつ、文字通り日本の「宝」姫路城を見に行かない理由はありません!