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【江戸城の歴史】失われた天守閣とその歴史

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    NHKの年末ドラマで放送される『家康、江戸を建てる』(著:門井慶喜)。徳川家康が関東に入国してからの様々な奮闘を描いた作品です。その中でも今回は江戸城にせまります!
    なぜ江戸城は真っ白に造られたのか。なぜ天守閣は再建されなかったのか。そこには、深い想いがありました。
    さまざまな歴史を追っていきましょう!

     

     

    江戸城とは

     

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    江戸城とは、現在の東京都千代田区に位置し、徳川家康が江戸へ入国したのち、1603年から築城され、わずか3年で完成しました。
    現在は、皇居として機能しています。

     

     
    江戸城の敷地内では一部公開されており、観光もできますよ!皇居東御苑内では、様々な石垣をみることができ、天守閣跡の石垣の大きさは圧巻です。

     

     

     

    江戸城があった地域は、平安時代末期から鎌倉時代まで江戸氏という武士が本拠地を置いており、勢力が弱まると、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏が入ります。

     

     
    その後、扇谷上杉氏の家臣であった太田道灌(おおたどうかん)江戸城を築城しました。

     

     

     

    さらに時代は流れ、北条家が入り現在の江戸城の基盤を固めます。豊臣秀吉が天下統一のためにこの地に攻め込み、北条氏は滅びることになります。

     

     
    江戸城も開城され、ここで徳川家康が駿府から江戸へと移されたのでした。

     

     

     

    荒れ果てた江戸城でしたが、徳川家康は大規模な土木工事を命じる「手伝普請(てつだいふしん)」などの軍役などによって大名に江戸城の整備をすすめさせました。

     

     

     
    天守閣は1657年に起こった明暦の大火によって焼け落ちてしまい、そこから再建はされていません。

     

     

     

    江戸の天守閣は常識破りの白壁だった

     

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    江戸城は築城された当時、現在の姫路城のように真っ白なお城だったと記録されています。
    壁が白漆喰塗籠であるのはもちろん、屋根瓦も木板の上に真っ白な鉛の板を貼り付けた鉛瓦でした。

     

     
    石垣も伊豆石の白い石垣が使用され江戸城はまさに純白の白を纏ったお城でした。

     

     

     

    それまでのお城は、織田信長が築城した安土城や豊臣秀吉が築城した大阪城のように日本の中心に築かれたお城はほとんどが真っ黒でした。

     

     

     
    大阪城は、つややかな黒うるしが塗られ、かざりものに金箔をあしらうのが常だったのだとか。

     

     

     

    徳川家は、あえて真っ白なお城にすることで、「平和」を表現しました。穢れのない、太陽の光を連想させる再生の色。そういった色を新たな日本の中心である江戸城の天守閣に採用することで、平和を象徴しているのです。

     

     

     

    さらに、作中では、家康は白は「死の色」でもあると表現しています。
    家康自身がここまでくるのに多くの人が関わってきた。

     

     
    さらにこの江戸の町を整備するにあたって、建築、検地、採掘、埋め立て、開墾、運搬など様々な危険な職場で、命がけで立ち働いてくれた無名の人足のひとりひとりがいます。
    徳川家は多くの死体の上にあるのだと、家康は表現しました。

     

     

     

    そんな人々を祀る白御影の墓石としても見立てているのです。

     

     

     

    なぜ天守閣は失われたのか

     

    <01_江戸城の絵図>

     

     
    新しい日本を表現する真っ白な美しい天守閣ですが、1657年に起きた「明暦の大火」で消失してしまいます。ちなみにこの天守閣は、全高は60メートルほどもある、日本最大級の大天守だったのです!

     

     

     

    江戸幕府はこの大火のあと、すぐに江戸城の復興に着手しはじめます。天守ももちろん再建する計画で、土台の普請を加賀藩主・前田綱紀に命じたのです。

     

     
    前田家は、瀬戸内から巨大な御影石を運ばせて天守の土台を完成させたました。なんと、これが今も東御苑に残る天守台です。

     

     

     

    もちろん天守も再建されようとしました。
    しかし、そこで会津藩士の保科正之が、ストップをかけました。

     

     

     

    天守閣はそもそも軍事力・権力の証であり、徳川家に反感を持つ大名たちを牽制する役割をになっていました。
    しかし、内戦はなくなり、大名の統治システムも整備されたので、いわゆる天下泰平の世が訪れた時期だったのです。

     

     

     

    戦いの無い世の中で徳川家の軍事力を出す必要はありません。天守閣を治すよりも、城下町の復興を選択したのです。
    天守閣が無いということは、平和な世の中を象徴するものになりました。

     

     

     
    いかがでしたか。
    江戸時代は、大阪夏の陣や幕末の動乱は一部ありましたが、約260年以上も平和な世の中が続いた時代だったのです。
    その平和の象徴に真っ白な天守閣と、大火の後の天守閣を建てないという選択自体が、日本の平和を象徴することになったのですね。