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まとめ【江戸の小判はどの様に作られたのか】小判に命を捧げた橋本庄三郎の一生にせまる

  • 家康とともに貨幣の全国統一を成し遂げた立役者、
    庄三郎は、その当時、彫金師として立ち位置を確立していた後藤家の職人として雇われていました。
    後藤家の人物よりも豊富な知識と経験、技術を持つ彼の躍進していく一生に迫ります!

     

     

     

    橋本庄三郎とは

     

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    豊臣政権の時代、1593年。
    橋本庄三郎は、室町時代から代々続く彫金師の名家、後藤家で仕えていた職人でした。
    後藤家の人間よりも技術と知恵をもっていた庄三郎は、後藤家では理不尽な扱いをされ、いっこうに認められず、苦しんでいました。
    しかし、その腕は確かで、家康が小判を造ることになった際には、後藤家とともに庄三郎も呼び寄せました。

     

     

     

    そうして1595年、橋本庄三郎は彫金師の後藤徳乗とともに、徳川家康と接見しました。
    長乗は早々に京都に帰ることになりますが、橋本庄三郎が中心になり、武蔵墨書小判を作ったのは1595年とされています。家康はこの橋本庄三郎を気に入り、後藤庄三郎光次という名を与えます。

     

     

     

    家康は、江戸本町一丁目を与えて後藤屋敷を建てさせ、御金改役として金貨の検品を任せることにしました。後藤庄三郎光次はこの金座の当主となります。
    周辺には吹所という金貨鋳造施設を建て、小判師たちが日々金貨を作り、後藤庄三郎光次が管理する組織となりました。

     

    さらに詳しく橋本正三郎や日本の貨幣について知りたい方はこちら

    ▶▶【日本の貨幣の歴史】橋本庄三郎が貨幣を変えた

     

    江戸時代の貨幣について

     
    江戸時代の貨幣は「三貨制度」といって金、銀、銭(銅)の3種類がありました。
    金貨の単位は「両(りょう)、分(ぶ)、朱(しゅ)」で、「1両=4分=16朱」の四進法でした。「1両」は金の小判が1枚となっています。
    現代でいうと、1両で約8万円~10万円前後の価値になります。

     

     

     

     

    それまでは、秤量貨幣(ひょうりょうかへい)といって、天秤を引っ張り出してきて、貨幣のやりとりをいこなっていました。

     

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    こうした大口取引に秤量貨幣としての金銀貨を使用する貨幣経済はこの頃より商人を中心として発展し始め、また貴族や寺院が貢租や賜物として取得した金銀を銭貨に両替によって判金の需要が生じます。
    このころから、金屋(かねや)や銀屋(かねや)といった金銀の精錬および両替を行う職業が現れ始めます。

     

     

    そこで、庄三郎は、天正大判を参考に約4.4匁の1/10の定位定量を採用しました。
    薄く延ばす技術を必要とするその定量は、橋本庄三郎のアイデアとされます。

    関東ではそれまで甲州金が使われていたので、金工達は旧武田の流れでありましたが、徳川は天正大判を作っている後藤家の権威ある判金を作りたかったのです。

     

    さらに日本の貨幣の歴史を知りたい方はこちら

    ▶▶【江戸の小判はどの様に作られたのか】江戸時代の貨幣鋳造

     

     

     

    豊臣VS徳川 豊臣家との経済戦争

     

     

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    橋本庄三郎は、豊臣家と徳川家の経済戦争においても重要な役割を果たしました。

     

     

     

    徳川家康が世を納めた、江戸時代。徳川家康は全国統一を成し遂げましたが、橋本庄三郎の力もあり、貨幣の全国統一も成し遂げました。
    それまでの金貨は、豊臣秀吉が造らせた「天正大判」がありましたが、額面が大きすぎたため、一般市場には流通せず、その存在をみたことがないということから、「生き霊」などと揶揄されていました。

     

     

     

     

    そんな時代から徳川家康が貨幣の全国統一を成し遂げました。ではどうやって成し遂げたのか、それは、計数貨幣への移行にありました。
    徳川家康は、大判ではなく、小判を造りました。額面1両で、一般市場で流通するにはとても便利で、またたくまに広がります。

     

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    (写真提供:日本銀行金融研究所貨幣博物館)

     

     

     

    一般市場にとって何が必要とされているのか、見極めた徳川家康に軍配があがったのですね。
    家康の戦略を裏で支えたのが、橋本(後藤)庄三郎光次です。

     

     

     

     

    誰も行ってこなかった小判づくりをはじめ、見事成功させました。

    さらに詳しく豊臣秀吉と徳川家康の貨幣戦争について知りたい方はこちら

    ▶▶【橋本庄三郎と貨幣戦争】豊臣家と徳川家のもうひとつの戦い

     

     

    金座(現在の日本橋)で小判は作られていた

     

     

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    金貨をつくる機関のことを「金座」、銀貨をつくる機関のことを「銀座」と呼んでいました。
    銀座といえば、いまでもお馴染みのワードですが、「金座」という金を精錬していた場所もありました。

     
    金座とは、幕府から大判を除く金貨製造に関する独占的な特権を与えられていた金座人と呼ばれる町人によって構成された、いわば半官半民の事業団体のこと。

     

     
    江戸時代に「金座」には、金吹所(きんふきしょ、製造工場)、金局(きんきょく、事務所)がありました。

     

     

     

    その中には、橋本庄三郎の住宅もあったというので驚きですね。
    その場所は、現在の日本橋にあたります。なんと日本銀行の本店の敷地が、もともと「金座」だった場所なんだとか。

     

     

     

    金をめぐる歴史旅は、いかがでしたか。
    いま私たちが当たり前のように歩く銀座や日本橋。そこには深い歴史がありいま私たちが使用しているお金の原型ともなった金貨や銀貨をつくっていた人々がいたのです。
    そうした人間ドラマを知って歩く町はまた一段と違う風景になるのではないでしょうか。