まとめ【現代に残る神田上水】江戸時代に設けられた上水道の歴史に迫る
1901年6月、神田上水は廃止されました。その廃止まで、約300年もの間、水を流し江戸の人々の喉を潤してきた神田上水。
その歴史は、1590年、豊臣秀吉が天下人となった時代、江戸へと拠点を変えた徳川家康からはじまります。
江戸は漁村で、海に近く、さらに湿地帯だったため、井戸を掘っても塩の味がする、とうてい都市にはなりえなかった場所でした。
そんな場所で再スタートを切ることになった徳川家康。
新たな都市にふさわしい貨幣を橋本庄三郎に、利根川の整備を伊奈忠次に。
そして飲み水の確保を大久保藤五郎へ託しました。その歴史を追っていきます。
江戸の民の喉を潤した神田上水とは
神田上水とは、江戸時代に設けられた飲み水を供給する上水道です。
徳川家康が征夷大将軍となったことにより、江戸の町に急激に人口が増え、飲み水が足りなくなってしまいました。
その際に新たな水源を整備し、広げられたものを神田上水といいます。
さらに詳しく神田上水について知りたい方はこちら
▶▶【神田上水の歴史】江戸の住人の喉を潤してきた神田上水の今昔
藤五郎の手により赤坂のため池と神田明神の湧き水が飲み水に
さらに神田上水が整備されるまでには、多くの人がかかわりました。その一人が大久保藤五郎。
大久保藤五郎はもともとは菓子作り職人。さらにその前には家康の小姓として幼いころから仕え、戦でも活躍していました。
そんな藤五郎は、愛知県の一向一揆の際に、腰に銃弾を受け、歩行が困難に。
もともとお菓子を作ることが趣味だった藤五郎は、戦のたびにお菓子を差し入れます。
その腕前は確かで、家康も毒味を介さずに食してしまうほど!
そんな藤五郎がなぜ水道事業の責任者に抜擢されたのか。それは菓子造りに欠かせない水を見極める力にあったとされます。
藤五郎は、抜擢されてすぐに自身の足で漁村や村で聞き込み調査をはじめます。
ついに「赤坂の溜池」と「神田明神山岸の細流」をみつけ、わずか3か月で小石川上水を整備しました。
江戸の人口増によって井の頭から水を引くことに
さて、大久保藤五郎によって小石川上水が整備されて15年がたちました。
その頃には、関ケ原の戦いを経て、晴れて徳川家康が征夷大将軍に任命されます。
すると、参勤交代の制度などもあり、江戸に多くの人が集まるようになりました。
人口が爆発的に増えるということは当然藤五郎が整備した小石川上水だけでは、水の供給は間に合いません。
そこで家康が目をつけた場所が井の頭。
そこには七の井といって、7か所から水が沸いている場所がありました。
井の頭にあった村の有力者、内田六治郎を普請役に任命し、新たな上水工事がはじまります!
もちろん村の人々は、これまで村で独り占めできていた水源が江戸中のものになってしまうことに反発しますが、六治郎の口利きのおかげで、供給することができます。
家康はそのことも含め、藤五郎ではなく、六治郎を任命したのだとか。
そうして神田上水が完成します。
新たな水源となった井之頭を旅した記事はこちら
藤五郎の整備した小石川上水が、六治郎の工事により神田上水となり、江戸には新鮮な飲み水が隅々までいきわたるようになりました。
ちなみに、江戸時代から現代までの東京の水道の歴史は、文京区本郷にある「東京水道歴史館」でみることができます。
新たな視点を持ち、東京の町を歩いてみてはいかがでしょうか。