【神田上水の歴史】江戸の住人の喉を潤してきた神田上水の今昔
1590年、豊臣秀吉が天下人となった時代、徳川家康は、秀吉の命により、これまで生まれ育ち、さらに納めてきた駿河・三河から関東へと移ることになりました。
もともと漁村で、海に近く、さらに湿地帯だったこの関東の地は、井戸を掘っても「塩の味がする」といった、とうてい都市にはなりえなかった場所でした。
そんな場所で再スタートを切ることになった徳川家康を支えた家臣たちの戦いを追います!
神田上水とは
神田上水とは、江戸時代に設けられた飲み水を供給する上水道です。江戸の六上水(神田上水・玉川上水・本所上水(亀有上水)・青山上水・三田上水(三田用水)・千川上水)のひとつであり、古くは玉川上水とともに、二大上水とされました。
家康は当時飲み水を確保することが困難であった関東へ入ると共に、もともと菓子職人であった大久保藤五郎へ、上水道の整備を命じました。藤五郎は、小石川の流れを利用し、駿河方面へ流すことに成功します。
これが神田上水の原型となっています。
大久保藤五郎が整備した小石川上水をたどる歴史旅の記事はこちら▶▶http://histrip.jp/20181206tokyo-chiyodaku-6/
神田上水の歴史
この上水道の整備から15年経ち、徳川家康が征夷大将軍に任命されるとともに、さらに江戸の人口が増え、藤五郎が整備した上水道では足らず、人口の増加を見込めなくなってしまいます。
そこで家康は、新しい水源を求め、現在の井の頭にあった村に住む内田六治郎へさらなる上水道の拡大を命じます。井の頭の村の有力者であった六治郎は、周辺の村へ説得してまわりました。
そうして井の頭池を起点とした神田上水は、途中補助水源として、善福寺池を水源とする善福寺川と淀橋で玉川上水の分水、更に妙正寺川を併せて小石川の関口大洗堰に至ります。
関口大洗堰は流れてきた水を左右に分脈し、左側を上水に使う水として水戸藩の江戸上屋敷方面に流し、右側を余水として江戸川として流しました。
そうして神田上水ができあがり、人口が増えた江戸の人々の喉を潤すことに成功します。
江戸の新たな飲み水、井之頭公園を旅した記事はこちら
▶▶http://histrip.jp/20181206tokyo-chiyodaku-7/
神田上水の造りを見学!
提供:東京都水道歴史館
さて、そんな多くの人が、かかわった神田上水ですが、その構造をご存知でしょうか。
神田上水は、自然流下方式といって、送水菅として、石樋と木樋が一般的でした。暗渠といって、地下を通して江戸中に張り巡らされていました。
その構造は、東京都文京区本郷にある、「東京都水道歴史館」でみることができます。
この歴史館は、神田上水の懸樋が神田川にかかっていた水道橋の近くという上水に関連する地にかまえます。さっそく訪れてみましょう!
提供:東京都水道歴史館
1階では近代水道。2階では江戸上水の歴史を知ることができます。
今回訪れたのは2階の江戸上水。
(東京都水道歴史館内展示)
御茶ノ水にある懸樋の模型です。これは、神田川の上を通したものになります。川の交差問題の際に使用されました。
ちなみに水道橋という橋の名前の由来はこの懸樋なんだそう。
続いては木樋(もくひ)。
提供:東京都水道歴史館
石樋と違い、木でできた水道管のことをいいます。大気圧を利用し、高所の水を一度したに落とし、再び高所に上げる仕組みで、高所からゆるやかに水を流すことができ、井戸を深く掘る必要をなくす役割がありました。
続いては、一度歴史館を出て石樋(せきひ)をみていきましょう!
石樋とは、石で作られた水道管のことをいいます。石樋にすることで、水の鮮度を保つことができます。
(本郷給水所公苑 敷地内)
こちらは、昭和62年から平成元年にかけて、文京区本郷で発掘された神田上水の石樋を、本郷給水所公苑(ほんごうきゅうすいじょこうえん)移築・復元したものなんだそう。
いまでは蛇口をひねると出てくる水ですが、当時はこうして様々な方法で水をつないでいたのですね。
神田上水ですが、なんと明治維新後まで、江戸の飲み水として人々に呑まれていました。
ちなみに明治維新後も神田上水は東京市民の上水として使用されていましたが、1886年のコレラの大流行が起こり、以来毎年のように感染者が出ており、相次ぐコレラの流行により、改良近代水道の創設が急がれ、玉川上水を利用し、新設された淀橋浄水場に流し、沈殿濾過させた後、自然流下式で東京市内に給水されることになりました。
1901年に、神田上水の給水は完全に停止され、廃止されています。
いかがでしたか。
江戸時代の記憶を残す東京を、新しい視点で散策してみてはいかがでしょうか。