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【江戸の小判はどの様に作られたのか】江戸時代の貨幣鋳造

  • 1590年のこと。徳川家康は当時はまだ荒れ地とも言える、湿地帯であった江戸への国替えを命じられました。秀吉にしてみれば、家康を警戒して遠ざけることに成功しましたが、家康は彼らしい辛抱強さを持って、大阪に負けない大都市、江戸の街を作り上げていきます。
    今回は、関東の貨幣を整備した歴史を追っていきましょう!

     

     

    江戸時代の貨幣について

     

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    徳川家康が関東に国替えをした後、まず始めたことが、利根川の東遷、飲み水の確保、そして貨幣の鋳造でした。
    徳川家康は、貨幣制度の全国統一に乗り出し、当時豊臣政権が鋳造していた実用性の無い「大判」ではなく、一般の商人が使いやすい「小判」や「一分金(いちぶきん)」といった金貨を、橋本庄三郎につくらせます。

     

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    写真提供:日本銀行金融研究所貨幣博物館

     

     

    当時、豊臣政権時代に造られた金である「大判」は、1両単位ではなく、金塊のような大金での利用しかありませんでした。

     

     

    そのため、商人や民の間では流通しなかったのですが、徳川家康により1両単位での貨幣鋳造がはじまり、全国でも使用されるようになります。

     

     

     

    江戸時代の貨幣は「三貨制度」といって金、銀、銭(銅)の3種類ありました。
    金貨の単位は「両(りょう)、分(ぶ)、朱(しゅ)」で、「1両=4分=16朱」の四進法でした。

     

     

     

     

    「1両」は金の小判を1枚となっています。
    現代でいうと、1両で約8万円~10万円前後の価値になります。

    (大判1枚=小判10枚分)

     

     

     

    それでは、貨幣のできる過程を追っていきましょう。

     

     

    江戸時代の鋳造貨幣の製造工程

     

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    徳川家康につかえた橋本庄三郎の貨幣の作り方をご紹介します!

     

     

     

    まず金の吹立(精錬)を行います。窯の中にるつぼを置き、るつぼの中に地金を置き、窯の口をぴったりと粘土で閉じ、窯の上に炭を置きます。
    大工の人がその炭を吹き、熱することで、るつぼには純度の高い金が残ります。

     

     

     

    純度の高い純金を切り分け、鎚を使用して縦12センチ、横9センチの大判形になるまで打ち延ばしを行います。

     

     

     

     

    さらに偽金とみわけるために凹凸をつけ、さざなみ模様でびっしりと埋めます。
    「拾両 後藤」という文字を墨書し、書判(花押)を書き、最後には、極印を打ちこみ完成です。

     

     

    こちらが、1601年から実際に発行された慶長小判です!

    日本銀行金融研究所貨幣博物館からお写真をお借りしてまいりました。

    細かい模様がとても美しいですね。

     

     

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    (写真提供:日本銀行金融研究所貨幣博物館)

     

     

    現在とは違い、ひとつひとつ手作りで作られていたことに驚きですね。

     

     

     

     

    日本橋で小判は作られていた

     

     

     

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    この時代、金貨をつくる機関のことを「金座」、銀貨をつくる機関のことを「銀座」と呼んでいました。

     

     

    金座は江戸、京都、駿府(現在の静岡)、佐渡などに、銀座は江戸、京都伏見、駿府などにそれぞれ置かれていました。
    現在の東京にある「銀座」という街の名前はここから来ています。

     

     

     

    ちなみに、日本銀行の本店の敷地は、「金座」という場所にあたります。

     

     

     

    「金座」とは、勘定奉行の支配下にあり、御金改役を長官として、幕府から大判を除く金貨製造に関する独占的な特権を与えられていた金座人と呼ばれる町人によって構成された、いわば半官半民の事業団体のことでした。

     

     

     

    江戸時代に「金座」には、金吹所(きんふきしょ、製造工場)、金局(きんきょく、事務所)がありました。
    橋本庄三郎は、そうした日本橋の金座・銀座の設立に携わりました。橋本庄三郎光次の役宅も「金座」にあったのだとか!

     

     

     

     

    いかがでしたか。
    実はこうした貨幣の鋳造は、京都で行われていました。江戸時代、橋本庄三郎によって江戸の金座(現在の日本橋)で、金貨の鋳造が行われるようになりました。
    ひとつひとつ手作りで作られた貨幣、いまもその場所に日本銀行があることは歴史のつながりを感じますね。