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西南戦争はなぜ起こった!?西郷隆盛ゆかりの地を巡る歴史旅

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    明治維新後、不平士族による最期の反乱とはった西南戦争。日本史上、最大で最後の内戦として知られています。
    西南戦争は、「西郷どん」こと西郷隆盛が中心となり、西郷が開いた私学校の生徒や、旧薩摩藩の不平士族たち約3万人が、明治政府に対して蜂起しました。
    倒幕でも大きな役割を果たし、日本史上で重要な役割を果たした西郷隆盛、なぜ政府に逆らうことになったのでしょうか?
    西南戦争の舞台となった熊本、鹿児島で歴史を感じる旅をご紹介します!

     

     

    西南戦争について

     

     

    1877年9月24日、日本最後の内乱となった西南戦争が西郷隆盛の自害をもって終わりを告げました。
    どのような理由があって最大で最後の内乱が起きてきまったのでしょうか。

     

     

    理由は、新政府軍の中での意見の対立でした。
    西郷や板垣退助は、外国と通商条約を結び、経済を潤して強い国を作るべきという考え方を持っていましたが、大久保利通たちは国内の整備を優先する慎重派だったのです。
    明治天皇の意向で国内の整備が始まるのですが、これに不服だった西郷たちは一斉に辞職してしまうことになります。

     

     

     

    西郷は鹿児島へ戻り、武士階級がなくなり、行き場を失った士族たちに漢文や軍事を学ぶ私学校という場を提供します。
    しかし、これが明治政府の目には脅威に映ってしまったのです。

     

     

     

    西郷は当初政府と事を構えることに反対でしたが、政府側に、西郷暗殺の計画があったことが知られるとやむなく西郷も挙兵に同意。

     

     

     

    ついに政府が恐れていた薩摩藩の挙兵が現実に。
    そうして、熊本城やその近辺から西南戦争の火蓋が切って落とされました。

     

     

     

    両軍は熊本城とその付近の田原坂を中心に激しい戦いをくり広げます。
    なかでも、加藤清正が建てた難攻不落の熊本城での戦いですが、それを守る官軍は4000人。

     

     

    一方、攻める薩摩軍側は14000人。
    装備の質に劣る薩摩軍は敗北し熊本城攻略を諦めます。

     

     

    その後、薩摩の城山にこもった西郷らは民衆を味方につけて一時形勢を逆転させますが、やがて数に勝る政府軍が態勢を立て直すと西郷らは危機に陥り、洞窟にこもります。
    薩摩軍の数は300余、対する政府軍は4万という状況下のなか、西郷隆盛は、「晋どん、もうここらでよか」と、同行していた別府晋介に言い、別府に介錯を頼んで自刃に果て、西南戦争は終わります。

     

     

    西南戦争にゆかりのある人物

     

     

    西南戦争にゆかりのある人物を、西郷軍、明治政府軍に分けてご紹介します!

    【西郷軍】

    西郷隆盛(さいごう たかもり)

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    西南戦争の旧薩摩藩士軍の総大将です。西南戦争の際には指揮に一切口を出さなかったといわれています。
    反乱軍の敗北が確実になると西郷自身も銃弾を受けて死を確信、別府晋介の介錯を受けて自害しました。

     

    別府晋介(べっぷ しんすけ)

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    薩摩藩士で戊辰戦争に貢献しました。西郷に従って私学校の監督となりましたが、西南戦争が起こると挙兵します。
    戦にて足を撃たれたために途中からは駕籠にのって参戦していました。

     

     

     

    最期は西郷の介錯をおこない、そのまま政府軍の銃弾のなかに飛び込みます。

     

     

     

    篠原国幹(しのはら くにもと)

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    薩摩藩士で廃藩置県にも貢献したことがあり、陸軍少将にまで昇進しましたが西郷が明治6年の政変で官職を辞めて、帰省するとそれに従います。
    その後は鹿児島にて私学校の監督を務めますが、士族による弾薬庫襲撃事件と政府による西郷暗殺の計画が発覚し、政府に対し反乱を仕掛けることにいち早く賛成しました。
    最期は陣頭に立って指揮をとっているところを政府軍に銃撃され戦死、その死は反乱軍の戦意を高めることとなりました。

     

     

    【明治政府軍】
    大久保利通(おおくぼ としみち)

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    薩摩藩出身の官僚で内務卿(内務省の長官)。西郷とは幕末以来の盟友でしたが、明治6年の政変で西郷らとは朝鮮との外交をいかにするかで意見が対立し、結果外交を行わないとして西郷らの意見を無視し、彼らを官職から退けさせます。
    西南戦争では直接戦地には赴いておらず、京都にて指揮をとる一方で、上野公園にて第1回内国勧業博覧会を開催していました。
    この戦争で士族を鎮圧することで旧来の武士の社会を完全に打破し、大久保は官僚政治の実現に大きな一歩を進めることができたのです。

     

     

    山県有朋(やまがた ありとも)

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    元長州藩士で松下村塾出身、明治政府の陸軍卿で徴兵制を制定しています。
    西南戦争当時は陸軍参謀として直接指揮に関わっており、大久保ら薩摩派閥に対して長州派閥の代表として行動しました。
    彼は城山の戦いにて西郷に降伏勧告をしましたが聞き入れられませんでした。その後は内閣総理大臣を経て、大正時代まで元老として重きをなします。

     

     

     

    西南戦争に関する主な観光スポット

     

     

    西南戦争、西郷隆盛ゆかりの地をご紹介します!
    今回ご紹介するのは、西南戦争も終盤。熊本城、田原坂の戦いを終え、西郷が薩摩に戻った際のスポットをご紹介します。

     

     


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    城山は西南戦争の最後の激戦地となったため、西郷洞窟や西郷終焉の地など、西南戦争にまつわる史跡が多く存在します。
    城山にある西南戦争薩軍本営跡(ドン広場)、西南戦争の際には、この地に薩軍の本営が置かれました。

    住所:鹿児島県鹿児島市城山町

     

     

    西郷隆盛洞窟

     


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    西郷が最後の五日間を過ごしたのがこの洞窟と伝えられています。

    住所:鹿児島県鹿児島市城山町

     

     

    西郷隆盛終焉の地
    明治10(1877)年9月24日未明、城山を包囲した政府軍は一斉に砲撃を開始し、薩軍は、敵陣目掛けて岩崎谷を駆け下り、最後の抵抗を示しました。西郷隆盛は腰と太ももに銃弾を受け、この場所で別府晋介の介錯によって最後を遂げたと言われています。

     

    住所:鹿児島県鹿児島市城山町

     

     

    私学校跡

     

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    明治6(1873)年、政変で下野した西郷隆盛は、鹿児島の士族たちのため、この地に私学校を創設しました。 西南戦争の際、この私学校の石垣に多くの銃弾が打ち込まれ、今なお激戦の様子を伝えています。

    住所:鹿児島県鹿児島市城山町

     

     

    鶴丸城跡
    昭和58(1983)年、明治百年(昭和41)年を記念してオープン。鹿児島県の歴史、民俗や考古、美術・工芸についても充実の展示内容を誇る。敷地は薩摩藩主が代々暮らした鶴丸城の本丸跡にあたり、現在でも濠や石垣などにその面影をみることができます。

    住所:鹿児島県鹿児島市城山町7-2
    西郷隆盛像
    昭和2(1927)年、西郷隆盛没後50年を記念して建立が計画され、昭和12年に完成した銅像です。作者は郷土出身の彫刻家・安藤照。陸軍大将の正装の姿をうつしたもので、台座を含めた高さは14mあまりあります。

     

    住所:鹿児島県鹿児島市城山町4-36

     

     

    熊本・鹿児島の主なグルメスポット

     

     

    熊本のグルメスポット
    熊本城の城下町では、桜の小路といって城下町を再現したエリアがあります。そこでは、県下から選りすぐりのお店が23店舗!熊本の昔ながらの食文化を楽しむことができます!

     

     

    熊本城香梅庵
    ここでは、細川家の献上菓子「加勢以多」などを楽しむことができます!
    営業時間 9:00~19:00(12月~2月は18:00まで)
    https://www.kobai.jp/

     

     

    馬肉専門店 菅乃屋
    熊本で馬肉が食べられるようになったのは、加藤清正公が肥後の国を治めていた頃からと言われています。当時は薬膳料理としても食され、馬肉が珍重されるようになったのだとか!
    そんな熊本城ゆかりの一品を熊本城を見ながら楽しんでみては?
    営業時間 9:00~19:00(12月~2月は18:00まで)
    https://www.suganoya.com/

     

     

    鹿児島のグルメスポット
    西郷隆盛銅像 展望ホールK10カフェ
    ※西郷隆盛の曾孫がオーナーのカフェ。
    西郷隆盛像を上から見下ろしながらゆっくりとくつろぐことができます。
    営業時間 10:00 – 18:00(月曜日定休)
    http://keitencafe.jp/


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    郷土料理 さつま路
    鹿児島の郷土料理「とんこつ」はどんな料理かと言いますと、アバラ骨つきの豚肉を黒砂糖と焼酎そして鹿児島の味噌、生姜などで味付けして柔らかく煮込んだものです。
    もともと、薩摩藩士が戦場や狩場で作った豪快な男の料理。祝い事でも食べられていました。
    西郷さんは黒豚が特に好きで、とんこつが大好物であったということが、愛加那(二度目の結婚の妻)の子孫が残した『鹿児島の郷土料理』という書籍に載っています。
    営業時間 11:30-22:30
    http://www.satumaji.co.jp/

     

     

    熊本・鹿児島のおすすめコース

     

     

    今回は、西南戦争のゆかりの地を時系列にめぐります!
    まず訪れたのは、熊本城。
    加藤清正が築城した日本屈指の名城です。
    ここ、熊本城では、政府軍による籠城戦が行われました。その軍勢は、政府軍は4000人。攻める薩摩軍側は14000人でした。
    田原坂を通って援軍や物資の支援が行われ、さらに加藤清正による強固な石垣により、とうとう熊本城を落とすことはできなかったのです。

    震災によって一部石垣がくずれてしまってはおりますが、見学コースもあります!約20年かけて修復される熊本城。ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。


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    続いて鹿児島県へ。熊本城、田原坂の戦いを経て、西郷隆盛たちは1877年9月1日、鹿児島へ戻ってきました。鹿児島の西南戦争ゆかりの地をめぐっていきましょう。

     

     

    まず訪れたいのは、城山。
    ここ城山は、西南戦争の最後の激戦地となった場所です。薩摩郡372人に対して、最終的に約7万人の政府軍に囲まれた場所でした。

     

     

    城山展望台の駐車場から階段を上がると、西南戦争薩軍本営跡(ドン広場)に到着しました。なぜドン広場かというと、時報の大砲を当時打っていたからだそうです。
    なんと、昔、鹿児島市役所の職員の方が、正午きっちりに時報の大砲を打っていたそうです。

     

     

    城山頂上近くには本営跡の碑がたてられています。

     

     

    続いて、西郷隆盛が最後の5日間を過ごした洞窟に到着しました。現在洞窟は2つのみとなっていますが、元々11個もの洞窟があったのだとか。
    洞窟自体は、奥行きがなく狭い造りになっていました。4~5人入るのがやっとの洞窟です。

     

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    Photo by @t.naga10

     

     

    西郷たちは、最期の日の前夜。残ったお酒や食料で小さな宴を開きました。日本のために多くの功績を残した彼は、いったい何を考えていたのでしょうか。

     

     

    翌朝4時頃、政府軍による総攻撃がはじまります。西郷隆盛、桐野利秋・別府晋介らは城山を下りました。
    ここから300mほどくだった場所で、西郷の腰と太ももを二発の銃弾が貫きました。
    いまは閑静な住宅地に、西郷隆盛終焉の地があります。

    ここで西郷は、「晋どん、もうここらでよか」と言って最期を迎えたのです。

     

     

     

    おススメの周辺エリア

     

     

    熊本城
    熊本城へは、熊本駅から出ている熊本城周遊バス「しろめぐりん」が便利です!熊本城は現在復元工事中ですが、見学できる場所もあります。

     

     

     

    1877年2月22日、西南戦争における熊本城の戦いがはじまりました。
    熊本城を包囲し、薩摩全軍を持って総攻撃に当たります。しかし、3日間攻撃をしても熊本城はビクともしません。
    すぐには落とせないことを察し、薩摩軍側は兵糧攻めの作戦に切り替えます。4000人の兵士を賄う食料が先に尽きるのを待つことにしたのです。

     

     

     

     

    そんなびくともしない熊本城、難攻不落の城として昔から有名であり、その理由は多くあり、ひとつは、石垣の「武者返し」と呼ばれる造りにありました。
    武者返しの石垣を登ろうとすると、一見、石垣の下の部分は傾斜が緩やかで簡単に登れるように見えますが、上に向かうほど傾斜が急になり、登ることができなくなります。

     
    熊本城を築城した加藤清正は、「築城の名手」。豊臣秀吉に仕えました。名古屋城や江戸城の建築にも携わっています。
    西郷隆盛は「ワシは官軍ではなく清正公に負けた」という言葉を残したとされています。
    西郷隆盛が嘆いた「加藤清正に負けた」その言葉を象徴するこの石垣は、加藤清正が近江国(おうみのくに)から連れてきた石工(いしく)集団「穴太衆」がつくったといわれています。

     

     

     

     

    石垣の見学を終えて、熊本城本丸に鎮座する「加藤神社」へ。ここは、熊本の礎を築いた加藤清正公を祀る神社。鳥居の手前からは宇土櫓を、境内からは大・小天守閣を間近に望むことができます。

     

     

     

     

    ちなみに、熊本城は。熊本市役所の14階からも見ることができます!
    約20年かけて復元工事中の熊本城。いましか見ることができないその姿をぜひ見に訪れてみては?

     

     

     

    田原坂の戦い


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    続いては、田原坂の戦いがあった田原坂へ。田原坂へは、熊本駅から車で20分で到着します。
    田原坂は、歩くと30分ほどで上がれました。

     

     

    西南戦争の戦場となったのは九州の鹿児島県・熊本県・宮崎県・大分県。戦力は政府軍6万に対し薩摩軍3万。戦死者は両軍合わせて14000人。その四分の一が3月4日~20日のたった17日間で西南戦争最大の激戦地・田原坂にて亡くなりました。
    田原坂は熊本市と熊本県玉名市を結ぶ幅4m、長さ1.5km、標高差60mのゆるやかな坂道。

     

     

     

     

    ここで戦いが起こった理由は、熊本城と関係がありました。
    この時、政府軍の主力は熊本城で籠城していました。熊本城へ援軍に行こうとした政府軍は、唯一大砲が通れる田原坂を通ろうし、それを阻止しようとした薩摩軍との間でこの戦いが起きたのです。

     

     

     

    田原坂にあるスポットをご紹介

     

     

    西南の役戦没者慰霊の塔には、戦死した政府軍4454名、薩摩軍1134名、殉難者29名の名前が刻まれています。

    田原坂西南戦争資料館には、山中に潜む薩摩軍兵士の様子を再現した最新の体感展示などがあります。
    ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。

     

     

     

    西南戦争の足跡を追う歴史旅はいかがでしたか。
    西郷隆盛は、日本のために大きな功績を残し、多くの人の憧れの的となりました。最期は無念の死を遂げてしまいますが、その足跡や信念は今も確かに鹿児島の人々に受け継がれていることを感じた歴史旅でした。
    熊本から鹿児島まで、日本を想い戦った人々をたどる旅に出かけてみませんか。