滋賀県甲賀油日神社で密会していた 伝説の忍者「甲賀流」に迫る
忍びの里、滋賀県甲賀市。
伊賀流忍者と並ぶ著名な忍者・甲賀流忍者は、医学や薬学に関する忍術を得意とし、時代を読む力があったといわれています。
今回は、鋭い予見で戦乱の世を生き抜いた甲賀流忍者に迫りましょう。
甲賀忍者の概要・歴史
甲賀流忍者の「甲賀流(こうかりゅう)」とは、近江国甲賀の地に伝わる忍術流派の総称です。
普段は農業や行商を通して各地の情報を探り、指令が下ると戦場やその後方へ出向いて、工作活動に励みました。
また甲賀流忍者は、甲賀で栄えた山岳宗教の影響を受けています。
山で修行を積んでいた山伏と同様に、自然豊かな山野で体を鍛えたり、薬草の知識や精神統一する手法を身につけることで、甲賀流忍者の技として活かされているのです。
そのため忍術流派の中でも、薬の扱いに長けているとされ、その技術が紡がれて甲賀には今も製薬会社が数多く存在しています。
それでは甲賀流忍者の歴史を辿っていきましょう。甲賀流忍者の本当の姿は「甲賀衆」と呼ばれる地侍です。
戦国時代、有力な支配者がいなかった甲賀では、「甲賀郡中惣(こうかぐんちゅうそう」と呼ばれる自治組織が成立します。甲賀衆の結束は強く、「ものごとは全員で話し合い決める」ことを徹底し、全員で甲賀の地を守っていました。
ところが織田信長や豊臣秀吉が台頭してくると、自治組織から大名に仕える「忍び」として力を発揮していきます。その甲賀流忍者が仕えた大名としてよく知られているのが、徳川家康です。
家康は甲賀流忍者の高度な技術に目を付けて、約270名にもおよぶ甲賀流忍者を雇っていました。1582年、明智光秀が信長を暗殺する「本能寺の変」が起きます。当時京都にいた家康は、信長暗殺の一報を聞き、本拠地三河へ戻ろうとします。
そこで待ち受けていたのが、光秀の刺客。家康は窮地に追い込まれます。ここで登場するのが甲賀流忍者です。甲賀・伊賀流忍者が全力で家康を守り、無事に三河へと送り届けました。
後に江戸幕府を開き、天下を治める大名になった徳川家康の危機を救った甲賀流忍者でしたが、その幕引きのきっかけとなったのは皮肉にも江戸幕府でした。江戸幕府の要請で甲賀流忍者も数百名江戸へと向かいましたが、厳格な身分制度と世襲制を実現した江戸幕府には次第に忍者が不要となっていったのです。
そして明治維新を終え「平民」となった甲賀流忍者は紡いできた医学や薬の知識を活かして、医学薬品に関連する商売を行うようになり、現在に至ります。
甲賀忍者と伊賀忍者の違い
先ほどの甲賀流忍者の歴史をたどる中でも出てきた「伊賀流忍者」。
伊賀と甲賀が忍者で有名なのは知っているけど、違いは知らないという方もいらっしゃると思います。ここでは忍者の代表格、伊賀流忍者と甲賀流忍者の違いを3つの視点からご紹介します。
1つ目が組織運営の方法です。
甲賀流忍者は「甲賀郡中惣」と呼ばれる共同体を形成し、話し合いでものごとを決めていく形を取っていました。伊賀流忍者も共同体が形成されていましたが、意思決定に関しては「伊賀上忍三家」と呼ばれる有力者の意向が強く反映されていたそうです。
「伊賀上忍三家」とは、優秀な忍者を輩出した服部家・百地(ももち)家・藤林家を指します。
2つ目が仕事の仕方です。
甲賀流忍者は仕える家を厳密に選定していました。先見の明があったといわれる甲賀流忍者。
まだ天下人ではなかった徳川家康に仕えたことを考えると、本当に未来を読む力があったのかもしれません。
伊賀流忍者は「依頼があれば応える」という形で、複数の大名に仕えていました。ときには戦場で、それぞれの軍に伊賀流忍者がいることもあったそうです。同じ伊賀流忍者でありながら「敵」という、なんとも複雑な環境であったといえますね。
3つ目は忍術の違いです。
甲賀流忍者は平時に農業に励んだり、薬草を栽培したり、売り歩いていました。そのため医学や薬学に関係する忍術に長けていたのです。
伊賀忍者は呪術を得意としていました。
伊賀の地は、山に囲まれた盆地であったため、古くより亡命者が多かったと伝わっています。その亡命者の中には、物部氏など呪術を得意とした人々がおり、伊賀の地に呪術が伝わったそうです。
伊賀流忍者の呪術でも、両手で印を結ぶ「九字護身法」や、印を結び呪文を唱える「印明護身法」などは、よくイメージする忍者の姿ではないでしょうか。また忍者が「ドロンと消える」際に欠かせない、火の術も得意としていました。
同じ忍者でも、伊賀流と甲賀流では場所以外にも違いがあり、それは地理的・歴史的な要因も大きくかかわっていることがわかりますね。
唯一現存する甲賀流忍者の住まい甲賀流忍者屋敷へ
忍者の歴史や忍術を知る・見るだけでは飽き足らない、もっとリアルに忍者を体感したい方はぜひ「甲賀流忍術屋敷」へ。
甲賀流忍術屋敷は、忍者が住んでいた現存する唯一の屋敷です。一見すると、茅葺き屋根の一般的な民家ですが、中にはたくさんの仕掛けが施されています。
3階建てとなっており、はしごのような階段で上るため、まるで忍者になったような気分を楽しめますよ。
入館料はガイドもついて大人700円、子ども400円で、仕掛けや展示品の見学や屋敷の解説を聞くことができます。
では屋敷の中をすこしだけご紹介していきます。
こちらは屋敷内にある仕掛け「落とし穴」です。
約3メートルもの深さがある落とし穴。自力では到底抜け出すことができなさそうですね。他にもくるっと半回転する「どんでん返しの壁」や、厚くて重い壁のような「引き戸」、一見開かないように見えてスライドさせると開く窓「ころろ」など、甲賀流忍者の知恵が詰まったからくりに驚かされます。
からくり以外にも書物や手裏剣などの道具が展示されています。
忍者の格好をした屋敷のガイドの方が、わかりやすく説明してくださるので、はじめての方やお子様も安心。そのガイドの方によると、手裏剣は敵を攻撃する道具ではないそうです。
忍者と言えば手裏剣を武器に戦うイメージですが、本当は護身用の道具で、一人1~2枚しか持っていなかったのだとか。
そして健保茶というお茶のサービスもあります。この健保茶、もちろんただのお茶ではありません。
健保茶は、約600年前から忍者が飲んでいたと言われる不老長寿の「薬湯」です。
薬湯といっても苦かったり飲みにくいというわけではなく、おいしくいただけますので、ぜひご賞味ください。
甲賀流忍者の集合場所 油日神社
油日神社は、古来より朝廷の崇敬が厚く、「甲賀の総社」と言われていました。「油の火の神」として庶民の信仰も広く集め、いまも全国の油に関わる業界から篤く信仰されています。
そんな歴史ある油日神社は、かつて甲賀流忍者が篤く信仰した社であり、集会場でもありました。
その歴史を残しているのが「奴振(やっこふり)」という民俗芸能。甲賀流忍者が列をなして油日神社を参拝していたのが起源とされ、なんと978年には行われていたそうです。
現在は5月1日に行われる「油日まつり」で、5年に一度奉納されています。祭りの主役となる「頭殿(とうどう)」とお供の「奴(やっこ)」が行列をつくります。総勢60名が華やかな衣装を身にまとい、独特のリズムで舞う姿は圧巻です。
祭りは5年に一度と、タイミングを合わせずらいことがあるかもしれませんが、建建造物も見どころが満載。
本殿・拝殿・楼門・および東西廻廊の五棟が、国の重要文化財に指定されています。中世の神社建築で廻廊があるのは珍しく、映画やドラマなどの撮影も行われたそうです。
甲賀流忍者はこの建物で会合を開いていたのかと思うと、わくわくしてきますね。
忍びの里・甲賀で甲賀流忍者に迫る旅はいかがでしたか。
甲賀流忍者から平民となってからも、医学や薬学の知識を活かして生計を立てているのは驚きですね。
ぜひ皆さんも現地で忍びの歴史・文化に触れてみては。