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山上の宗教都市 高野山 空海の人生と1200年続く信仰に迫る

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    標高800mの山上、東西4km、南北3kmの土地に約2300人が暮らす神聖な和歌山県高野山の町。

    弘法大師空海が平安時代に真言宗・密教を開祖して約1200年。今も尚、多くの人々の信仰を集める聖地と空海の人生の秘密に迫ります。

     

     

     

    真言密教を開き1200年の間信仰され続ける空海の壮絶な人生の秘密

     

     

    高野山へは、JR南海電鉄の橋本駅から「天空」へ乗り換えて、木漏れ陽射す森や美しい渓谷を抜け天上の世界へと続く道を進めば、極楽橋駅。そこからケーブルカーに乗り換え高野山駅まで一気に駆けあがります。

     

     

     

    <01_koyasan_ケーブルカー>

     

     

     

    着いた先は標高800m、蓮華の様な八葉の峰々に囲まれた山上盆地にある、俗世から隔たれた神秘の土地。
    息を吸い込むと優しい木々の香りに心が落ち着きます。

    この高野の地には、現在117もの寺院が建てられ、内52ヵ寺は宿坊としても利用できます。
    今では年間約200万人もの人々が訪れる高野山は、空海によって開かれました。
    そんな真言密教の教祖、空海という人物と、彼の人生の集大成でもある高野山を知る旅へでかけましょう。

    弘法大師空海は774年、讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で生まれます。
    18歳で京の大学寮に入ります。大学の専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられています。

    24歳になった空海は、真の仏教を求めて僧として歩みだすことを宣言する「聾瞽指帰(ろうこしいき)」を書き上げました。のちに改定した「三教指帰(さんごうしいき)」です。
    それから7年間、大峯山(おおみねさん)や阿波(徳島県)の大瀧嶽(たいりゅうがだけ)、あるいは土佐(高知県)の室戸崎(むろとのさき)などの霊所を求めて、山岳修行を行い、奈良などの寺院で仏教を学びました。
    その修行中、久米寺の東塔に納められていた密教の経典、『大日経』と出会います。この密教の教えを深く理解するには、文字や言葉では伝えられないものを、師より学ばなければなりませんでした。

    そこで、弘法大師空海は、師を求め唐に行くことを決意します。
    804年、私費の留学僧として遣唐使船に乗り込みました。26年ぶりに出航された遣唐使船には、偶然にも、桓武天皇により派遣された伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)が乗船していました。 地位も待遇もまったく異なる弘法大師空海と伝教大師最澄。空海が31歳のときのことです。
    留学僧として遣唐使の一行と共に、肥前(長崎県)松浦郡田浦(たのうら)から唐へ出帆しました。
    遣唐大使と空海が乗船したのは第1船、最澄は第2船に乗船していました。この入唐船団の第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであったとされています。
    空海が乗る第1船も、九死に一生をえて福州赤岸鎮(ふくしゅうせきがんちん)に漂着しました。その後、皇帝からの使者とともに長安(ちょうあん)の都に上られました。

     

     

     

    遣唐使 空海 真言密教を学び高野山を開山するまでの軌跡をたどる

     

     

    無事遣唐使として中国に渡ることになった空海。

    長安の都に入った空海は、正統の真言密教を継がれた第七祖で、唐では右にならぶ者のない名僧、青龍寺東塔院(しょうりゅうじとうとういん)の恵果和尚に会いに行きます。
    早速「我、さきより汝のくるのを知り、待つこと久し」と大層喜ばれ、ただちに灌頂壇(かんじょうだん)に入ることを勧められました。

    そこで当時の最先端でもある「密教」を学びます。
    密教とは、言葉で表現できるとする「顕わな教え」に対し、個人の絶対的体験は表現できないとする「秘密の教え」を表します。
    当初は20年間の勉強期間を前提にしていましたが、空海はわずか2年で優秀な成績を収め帰国できました。
    空海は唐で学んだことをもとに「真言宗」(しんごんしゅう)という宗派を開きます。

    実は当時遣唐使船の数は限られていて、2年で帰国しない場合は次の帰国便が出たのは30年以上後だったそうです。
    遣唐使として中国に渡った日本人の中にはその遣唐使船に乗れず、そのまま中国で生涯を終えた人もいたのだそう。

    816年嵯峨天皇に高野山を与えられ、修行の場として金剛峯寺を建てました。高野山は空海が全力で生きた人生の集大成だったのです。
    多くの人々が1200年経ったいまもなお、弘法大使空海は、入定(にゅうじょう)といって真言宗密教の修行の一つ、悟りを得るための修行を弘法大師御廟(こうぼうだいしごびょう)にて行っていると信じられています。

    そのため、高野山の僧たちは、弘法大使空海への食事のお供えとして、毎日6時と10時30分の2回生身供(しょうじんぐ)を行っています。
    高野山に漂う空気感の秘密は、この絶対的な信仰であることを感じます。

     

     

     

     

    全長約23km6時間もの町石道を抜けた先に待つ希望の高野山大門

     

     

    さて空海の人生を振り返ったところで早速高野山を回ってみましょう。バスで約15分ほど乗って、大門へ向かいます。

     

     

     

     

    <03_koyasan_大門>
    大門には、大きく「高野山」と彫られた巨大な掛け札があり、高野山に来たという実感が湧きます。
    ここで一度想像してみてください。昔、沢山の僧侶は九度山町から全長約23km、過酷な町石道を一町ごとに置かれた町石216基を一つひとつ数え、6時間かけてようやくこの高野山へと到着します。
    僧侶たちはさぞ旅の達成感、充実感を覚えたことでしょう。
    また、ここから始まる修行を想像しながら、僧侶たちは覚悟を決めこの地へと足を踏み入れたことでしょう。
    この高野山のまちなみは、なんと長い道のりを6時間かけて登り、大門をくぐった先に、どっと広がる構造になっており、まちの魅せ方が厳密に計算された密教都市を感じさせます。
    1000年以上も女人禁制だったため、女性は大門をくぐれてもそこから先は入ることが許されませんでした。
    当時の古地図には、女性の信仰者が大門の前から高野山のまちなみを見ている様子が残されています。

     

     

     

    一の橋から奥の院の参拝道 聖域高野山の空気が出す威厳の秘密に迫る

    金剛峰寺からバスで約5分ほど、一の橋で降り、奥の院へと歩き出します。

     

     

     

    <05_koyasan_一の橋>

     

     

     

     

    一の橋から奥の院まで続く参拝道は約2㎞ほど、樹齢500年以上の杉が多く立ち並び、その情景は畏れと美しさの両方を感じることができます。
    両脇には、沢山の墓地が並び、とても静かで、神秘的で特別な空間にいる事を認識することができました。

     

     

     

     

    <06_koyasan_参拝道>

     

     

     

    参拝道はその荘厳な風景から、死者の世界と生者の世界の狭間とも説諭されており、脇道に一度足を踏み入れるとそこは別の世界なのかもしれません。
    凛とした空気が漂い、老樹からこぼれる木漏れ陽、線香の香りと煙が立ち込み、神秘の空間に身が清められます。

     

     

     

    その奥には弘法大師が入定された御廟があり、56億7000万年後に弥勒菩薩がこの世に出現する時まで、生身で修行されていると考えられています。
    しかし、空海の即身仏は奥の院の御廟ではなく、その地下に存在する霊窟・燈籠堂(とうろうどう)にあるのではないかとも言われており、真相は定かでありません。
    いまだ解明されない謎がある聖域。その空間を満たす何かを肌で感じとってください。

     

     

     

    弘法大師空海が創建し、世界遺産の1つに認定される高野山。この地に漂う神秘の空気の正体は空海が永遠の瞑想に入ってもなおこの地で修行を行い、参拝に訪れる人々のために祈りを行っているからでしょう。
    大昔から時が止まってしまったかのような景色が広がり、神聖な空気が流れる高野山に、あなたも訪れてみてはいかがでしょうか。