守りの城 篠山城 町の人々の思いも守り続けた城の魅力に迫る旅
兵庫県篠山市はかつて城下町として栄え、明治以降も中枢都市として機能していました。
今なお残る武家町の町並みの中心である北新町にある城跡「篠山城」(ささやまじょう)は国の史跡に指定されています。
今回はそんな篠山城を旅します。
この記事の目次
江戸時代の西国防衛拠点 篠山城 ~今に蘇る壮大な大書院の旅~
JR大阪駅から特急こうのとりに乗って約1時間22分、JR篠山口駅に着きます。
関西国際空港からですと、特急はるかでJR新大阪駅まで出て特急こうのとりにお乗り換えが便利です。
JR篠山口駅より神姫バスで約15分、二階町で下車して南へ徒歩約5分で篠山城大書院に到着します。
篠山城は1609年に松平康重に西国の防御拠点として築かれたことが始まりです。
その後篠山は城下町として整備が進められ、約40年の歳月をかけて大枠が出来上がったとされています。
大書院は篠山城築城とほぼ同時に建てられ約260年にわたって藩の公式行事などに使用されました。
明治維新での廃城令後も、城建物の中ではただひとつだけ大書院だけが残され、小学校や女学校または公会堂などに利用されていました。
しかし残念なことに1944年1月6日の夜、火災により焼失してしまいます。
その後、地元の多くの人の長年の願いにより、2000年3月に復元再建されました。
一度は火事で失ってしまった建物を、地元の方の想いにより再建できたのは大書院が古くから愛されてきた証拠だと感じました。
現在は、篠山を代表する観光スポットとして、地元の方はもちろん、日本国内、国外の多くの人から愛されています。
大書院は、木造建築としては非常に規模が大きく、現存する同様の建物の中では京都二条城二の丸御殿に匹敵するといわれています。建物と部屋割りや外観もよく似ているそうです。
二条城の御殿は将軍が上洛したときの宿所になった第一級の建物といわれていることから、大書院は一大名の書院としては破格の規模と古式の建築様式を備えたものといえます。
石垣で覆われた内堀の中にたたずむ篠山城大書院 職人の技で蘇った姿
篠山城の外堀はなんと一辺が約400m。
その広大な外堀の中にある内堀内に大書院があります。
ではさっそく大書院へと向かいましょう。
大書院への入り口までの道は枡形(ますがた)といわれる、敵軍の動きをさまたげるための方形の広場になっています。
石垣は自然石をあまり加工しないで積む工法が用いられています。
当時の姿を忠実に再現している石垣は、当時、敵から城を守っている様子が想像できました。
また、大書院の屋根は入母屋造りとなっており、上と下で構造が違っています。
上の部分は本を伏せたように二つの方向に屋根が広がっていますが、下の部分は四つの方向に屋根が広がっています。
さらに杮葺きと呼ばれる、現在の建築物には見られない伝統的な手法が用いられています。
一枚一枚職人が丁寧に作り上げた屋根は、昔から伝わる職人の技術がなければ蘇ることのなかったものです。
また、大書院内部には襖絵などに囲まれた8つの部屋があり、その周囲に広縁(ひろえん)が、さらにその外側には落縁(おちえん)が一段低く設けられています。
約400年前、ここで篠山藩のさまざまな公式行事が行われていたのだと思うと、不思議とその時の情景が思い浮かびます。
歴史を体感できるのは、やはり現地ならではの、旅の醍醐味だと感じました。
篠山城大書院 最も格式高い「上段の間」で創建当時に思いを馳せる
大書院にある部屋のなかで最も格式が高いのが「上段の間」です。
他の部屋に比べ、壁に施された屏風絵の迫力、また「上段の間」という名前の通り、格式の高さが感じられました。
幅3.5間(6.9メートル)の大床、その左手に付書院、右手には違棚(ちがいだな)、帳台構(ちょうだいがまえ)が設けられた、正規の書院造りです。
こういった座敷を飾るしつらえが整うのは、大書院が創建された慶長頃のことと考えられています。
この部屋で篠山藩の多くの武士により、儀式などが執り行われたのでしょう。
この上段の間には往時の雰囲気を再現させるため、江戸時代初期の狩野派絵師が描いた屏風絵を障壁画として転用しています。
再建されたとはいえ、江戸の雰囲気がとても感じられました。
他の部屋も、限られた範囲であれば入室もできるので是非当時の重厚な雰囲気を感じてほしいと思います。
いかがでしたか。
城下町として整備され、栄えた篠山の町。
壮大な石垣はまさに守りの城を感じさせ、その中にある大書院は篠山の人々の城への思いをも守ってきたのだと感じます。
是非、現地で体感してみてはいかがでしょうか。