堀田家にゆかりのある佐倉を巡る かつて江戸の要所として栄えた町
東京からアクセスが良い千葉県佐倉市(さくらし)。
日本100名城に選定された佐倉城をはじめ、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した人物・堀田正睦にゆかりのある地です。
東京から行ける武家町という利点から、いまでも多くの観光客が足を運びます。
そんな佐倉をご紹介します。
この記事の目次
佐倉が誇る重要文化財 明治時代に建築された数少ない建築様式とは
都心から約1時間、JR佐倉駅から歩いて約15分ほどで坂の上にある佐倉ゆうゆうの里の中に到着します。
入口から進んでいくと、おおきな武家屋敷の門がお出迎えしてくれます。
まず1つ目は「旧堀田亭」(きゅうほったてい)です。
旧堀田亭は、最後の佐倉藩主であった堀田正倫が、1890年に旧領である佐倉に設けた邸宅・庭園です。
廃藩置県後は華族として東京に住んでいた堀田正倫が後半生を農業と教育の発展に尽くすために1890年に故郷佐倉に建てて移り住んだという屋敷だそうです。
2006年に建物が国の重要文化財に指定されました。
内部は木造平屋建て一部二階建ての構造で、二階と書斎棟は非公開になってます。
押し入れや障子の一部も、きれいな模様で施されています。
人が多く集まる時に利用された座敷棟は、28畳以上もの大きさになっており、奥には掛け軸があります。
縁側から見ていただけると分かるかと思いますが、とても大きな屋敷です。
居間棟の一室で15分ほどのビデオ「明治に生きた最後の殿様 堀田正倫」を見せてもらえます。
波乱万丈の人生を送った堀田正倫。
後半生はどんな思いでここ佐倉に身を置いたのでしょうか。
ぜひ堀田正倫が過ごした屋敷を体感しにきてみてはいかがでしょうか。
所在地 : 千葉県佐倉市鏑木町274
蘭学 日米修好通商条約に携わった堀田正睦 千葉の佐倉で知る歴史旅
続いて、佐倉城址公園に移動します。
佐倉城跡の公園内には、堀田正睦の銅像と、タウンゼント・ハリスが迎えてくれます。
堀田家について語るのなら、堀田正睦のことは、一番最初に抑えておいた方がよいかもしれません。
堀田正睦は藩政改革を推し進め、佐倉藩には蘭学を導入したりするなど、「西の長崎・東の佐倉」と言われるほど、蘭学に力を入れました。
1843年に病院や学校を併設した、蘭医塾兼外科の診療所を創設しました。
佐藤泰然は、堀田正睦が蘭学を奨励し、堀田正睦は、江戸で開業していた佐藤泰然を招き、佐倉の地で藩内の学問向上を目指し、順天堂を創立しました。
日本でオランダと言ったら長崎の印象が強いかもしれません。
しかし、当時日本国内の蘭学はここ佐倉でも盛んに行われていました。
1858年にはタウンゼント・ハリスと日米通商修好条約の交渉に尽力しました。
佐倉城址の堀田正睦の銅像の隣にはタウンゼント・ハリスの銅像があります。ハリスの銅像は日米通商修好条約150年を記念して設立されました。
堀田正睦は、最期佐倉城の三の丸御殿で息を引き取りました。
文明開化、激動の時代を生きた堀田正睦。
彼なくして、明治時代以降の日本はなかったかもしれませんね。
所在地 : 佐倉城址公園内
日本100名城に選定されている佐倉城 武士が守り抜いた城を堪能
そのまま佐倉城址公園内を移動し、大きな広場へ。
日本100名城に選定されている佐倉城。
現在は址となっていて、佐倉城の水堀や門の跡を残すだけになってしまいましたが、跡はしっかり残っているため、城跡として見学することができます。
天守の模型は、佐倉城址公園に展示されています。
この大きな広場が本丸跡です。
ここでは桜の花見が行われるスポットになっているそうです。
ここ佐倉城は、城でなくなってからは陸軍の兵営として栄えました。
その時の兵士が書いたとされる、モッコクの木に文字が刻まれています。
いまも残るその筆跡を見ていると、とても感慨深いものがあります。
門の跡や空堀の跡が今でも残っています。
各ポイントに解説付きの看板があるので、どのような構図で城が建てられたのか学べます。
所在地 : 佐倉城址公園内
佐倉について知るなら、堀田家について知っていくことが一番です!
是非、江戸時代後期の動乱に生きた堀田正睦の人生を感じに、佐倉へ訪れてみてください。
また武家屋敷を見学するとなると、なかなか遠くて難しい場合でも、佐倉ならアクセスもとっても簡単です。
ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。