かくれ里と呼ばれる滋賀甲賀 白洲正子の書籍と巡るスポット3選
「日本の美」を追求した随筆家・白洲正子の代表作「かくれ里」。
その作品に出てくる滋賀県甲賀市は、伊賀流忍者や信楽焼ではなく、独自の視点から見た甲賀の美しさがあります。
今回は正子が見たかくれ里・甲賀の姿を追っていきます。
この記事の目次
甲賀へ行く前に知っておきたい 白洲正子と代表作「かくれ里」
「かくれ里」「西国巡礼」「近江山河抄」など、「日本の美」について多くの作品を残した随筆家・白洲正子。
彼女は、幼少期から能をたしなみ、文学や骨董の世界へと活動の幅を広げていきました。その行動力の原点となっていたのは、正子の生まれた家にありました。
正子は元薩摩藩士である樺山伯爵家に生まれ、「自分には薩摩の地が流れている」と強く意識していたと言われています。その意識が正子をあらゆる分野に誘い、後世に名を残す随筆家とさせたのです。
そんな正子の代表作「かくれ里」は、日本が高度経済成長期を迎えたときに書かれました。滋賀・京都・奈良・福井などにある山里を訪ね、正子独自の観点から山里に伝わる伝承や歴史、暮らす人々について書き連ねています。
その中に滋賀県甲賀市が登場しているのです。
作品中で、正子はJR草津線でJR甲賀駅の次、JR油日駅で降り、まず油日神社に寄ります。
そして油日神社の先代宮司のオススメで櫟野寺を紹介してもらい、櫟野寺に行きました。
今回は実際に正子がたどったルートで、「かくれ里」のスポットを巡りましょう。
映画やドラマのロケ地で有名 中世の神社建築をもつ油日神社
JR油日駅から徒歩約30分で、油日神社に到着します。油日神社は油日岳の北西麓に位置し、創建については詳しく分かっていません。
「油日」という名は、油日岳の山頂に油日大明神(あぶらひだいみょうじん)が降りてきて、大光明を発したことがはじまりです。そのとき山頂に「岳大明神(だけだいみょうじん)」の奥宮が造られ、里宮とされたのが油日神社でした。
奥宮とは山上にある宮、里宮とは麓にある宮を指します。古来より朝廷の崇敬が厚く、「甲賀の総社」と言われていました。「油の火の神」として庶民の信仰も広く集め、いまも全国の油に関わる業界から篤く信仰されています。
それでは境内を散策していきましょう。
楼門をくぐると、楼門の左右から廻廊がのび、奥に拝殿があります。本殿・拝殿・楼門・および東西廻廊の五棟が、国の重要文化財に指定されています。
もしかしたら境内を見ると、「映画やドラマで見たことがある」という方もいるかもしれません。中世の神社建築で廻廊があるのは珍しく、大河などのロケ地にもなっているそうです。
正子は京都の博物館で見た「お面」を思い出して、油日神社へ寄り道したと言われています。油日神社では、正子が見たという「福太夫の面」と「ずずい子面」を見ることができます。
こちらは福太夫の面。正式名称は「田作福太夫神の面」と言います。1508年に、桜宮聖出雲が制作したものです。
続いて「ずずい子面」です。ずずい子のお顔は満面の笑みなのがわかります。福太夫と同じく桜宮聖出雲が制作したもので、豊穣の祭りに使われていました。
このすずいこ面から、かつて豊穣の祭りは裸のまま田圃をつついて回ったのではないかと、白洲正子は見ています。
そこに福太夫のお面をつけた人が登場し、おめでたい歌詞と所作を交えて田祭りをしているのを想像すると、とても楽しそうですね。
約20体におよぶ重要文化財の仏像を安置する櫟野寺
続いて正子が油日神社の宮司に薦められた「櫟野寺」(らくやじ)へ向かいます。
油日神社から「鹿深の道」に沿って歩いていきます。
「鹿深」とは山奥にいる鹿のことで、鹿深の道沿いには木々が連なり、その名の通り鹿が出てきそうな雰囲気です。
進んでいくこと約20分で櫟野寺に着きました。入ってすぐの参道左手にずらりと並ぶ石像に圧倒されます。
櫟野寺は天台宗の寺院で、創建は792年に最澄が本尊である十一面観音菩薩を安置したことによるそうです。また本尊以外にも、約20体の仏像を有することで知られています。
中でも木造薬師如来坐像は、十楽寺(じゅうらくじ)の丈六阿弥陀如来坐像や大池寺(だいちじ)の釈迦如来坐像と合わせて「甲賀三大佛」と呼ばれる、知る人ぞ知る仏像です。本尊は「秘仏」として、通常拝観では公開されていません。
せっかくならご本尊にお目にかかりたい…という方は、年4回の特別拝観に合わせて行くようにしましょう。
境内は全体的に花木が多く、四季折々の姿も楽しめるお寺です。仏教美術に触れるとともに、四季を感じ、櫟野寺にある「日本の美」を体感してみては。
聖武天皇が造営した離宮 紫香楽宮
櫟野寺から最後の目的地「紫香楽宮跡」へ。紫香楽宮跡へは、一度JR油日駅まで戻り、電車を乗り継いで「紫香楽宮跡駅」を目指すか、車での移動となります。
紫香楽宮は742年に恭仁宮を造営中だった聖武天皇が「離宮」として造営されました。そして743年聖武天皇は紫香楽宮で蘆遮那仏(びるしゃなぶつ)の造営を発願し、甲賀寺と大仏の造立がはじまります。
順調に造立は進み、745年正月に紫香楽宮は正式な都となりました。
ところが都になった途端に、火災や地震が相次ぎ、わずか数か月で平城京へと都を遷すこととなったのです。もし紫香楽宮が災難に見舞われなかったら、東大寺の大仏は存在していなかったかもしれませんね。
建造物は残されていないものの、紫香楽宮の「礎石」が当時のまま現存しています。ここには何があったのだろうか、と考えながら眺めてみてください。もしここに東大寺の大仏があったら…と想像を膨らませてみるのもおもしろいですね。
正子は紫香楽宮跡について、「なぜこんな山奥に都や大仏が造られたのか」と疑問を抱いています。
その理由の一つとしては、もともと離宮として築かれた背景があるでしょう。
皆さんはどのように考えますか。
かくれ里・甲賀の旅はいかがでしたか。
独自の世界観を楽しむためにも、ぜひ白洲正子の「かくれ里」を片手に、「油日神社・櫟野寺・紫香楽宮跡」を訪ねてみてください。
そして次の「かくれ里」へと、足を向けてみては。