富田が芝と呼ばれた荒れ地にできた大阪が誇る 商いの町 富田林
戦国時代の1467年~1562年に、寺内町と呼ばれる宗教自治都市が各地に誕生しました。
寺院の境内に接するように形成されたこの都市集落は、大名や領主などに干渉されず確立していきます。
奈良県の今井町、大阪府の堺などに寺内町の面影をとどめる町並みが今も残されています。
そんな中の一つがここ大阪府富田林。大阪から約1時間でアクセスできる寺内町の魅力に迫ります。
この記事の目次
大阪の商人魂はここにあり! 富田林の成り立ちと発展を紐解く旅
大阪から近鉄に乗り換え、約1時間で到着できる近畿日本鉄道長野線の駅である富田林駅。
駅から徒歩約3分で古い町並みが見えてきます。
これから始まる歴史旅に心が躍ります。
富田林の古い町並みは、重要伝統的建造物保存地区に指定されています。
富田林の町の成り立ちは、1555年から京都・興正寺第16世・証秀(しょうしゅう)上人(しょうにん)が石川の西、石川のほとりにあった、富田が芝と呼ぶ台地状の荒芝地に目をつけ、
1558年当時領主であった、大阪府羽曳野市古市にかつてあった日本の城、高山城の城主、安見直政(やすみなおまさ)から青銅銭百貫文を出して申し請けたことからはじまります。
近隣の中野村、新堂村、毛人谷(えびたに)村、山中田(やまちゅうだ)村から商人を2人づつを呼びよせます。
のちに富田林八人衆と呼ばれます。
信者達の力によって荒地を開き、四町四面の地域を区画して外側を土居と竹林で囲い、その中央に御坊を建てました。
これが興正寺別院(こうしょういんべついん)で、富田林という寺内町の開基となりました。
商人は租税免除?「諸商人座公事之事」で発展した富田林寺内町
富田林ができた背景はお分かりいただけましか。
では、富田林がどのように発展してきたのかをみてきましょう。
それは、1560年安見美作守の「定」の中に、「諸商人座公事之事」という一条にヒントがありました。
「富田林の寺内に住む商人からは租税をとってはならぬ。」という意味です。
そのため、熱心な信者達が各地から寺内に移り住みました。
御坊様への志納と町内の負担金以外に租税はかからないので、田地を持たず商いする人などが集まったそうです。
このように保護されながら寺内町としての富田林の村は着々と作られ、発展していきました。
そんなまちの中心に日本の道百選・城之門筋(じょうのもんすじ)があります。
興正院別院の前の道で、城之門筋の名前の由来は、その通りに面する寺内町の中心にある興正寺別院の山門が、豊臣秀吉が築城した京都・伏見城の門が移築されたと伝えられていることにちなむそうです。
町あるきをしていると、40件もの古い住宅が並ぶなか、もともと商いをしていたのがわかる住宅に併設された土藏を見つけました。
それぞれの住宅によって蔵の形が違うのもひとつの魅力に感じました。
富田林寺内町の中心 受け継がれ続ける 重要文化財興正院別院に迫る
富田林寺内町ができた際に中心となった、興正寺別院を訪れました。
なんと古い門で、開け閉めがとても大変なので、横の小さな扉からはいるそうです。
門の上には雨蓋瓦(あまぶたがわら)と言って、隅棟の下方にある、瓦の接合部を覆う飾り瓦がありました。
とても繊細な作りに驚きです。
扉を開けると、ワンちゃんがお出迎えしてくれました。
この寺院が富田林のできた際に重要な役割を果たしたのかと思うと、身が引き締まります。
鼓楼は重要文化財に指定されています。
1810年に現在の境内の北東隅みへ移築されました。土蔵造り2階建ての建物です。
中では、ちょうど写経の体験の準備をされていました。
お香の香りがとても落ち着きました。
所在地 : 大阪府富田林市富田林町13-18
富田林寺内町ができた歴史の背景を追ってきました。
いま私たちが歩いているその町には必ず、その町を興した人々が居たということを実感する旅でした。
ぜひ富田林寺内町の興正院別院で当時の空気感を感じてください。