今なお宿場町として残り続ける 日本の遺産・大内宿の歴史に迫る!
江戸時代に下野街道(しもつけかいどう)が開通されたことによって、整備された福島県下郷町(しもごうまち)の大内宿(おおうちじゅく)には宿場町が残り続けた理由と約400年もの歴史がありました。
江戸時代から変わらない街並みを散策し、歴史と自然を感じる。
そんな歴史旅があなたを待っています。
この記事の目次
宿場町として盛えた大内宿をめぐって江戸時代へタイムスリップ!
会津鉄道湯野上温泉駅から猿游号(さるゆうごう)というシャトルバスで約15分。大内宿にたどり着きました。
バスの料金は往復1000円です。
大内宿には南北に走る450mの街道を中心に、44戸ともの茅葺き屋根の古民家が軒を連ねています。
まるで復元されたものかと思うほど美しい街並みは江戸時代にタイムスリップしたような気分にさせてくれます。
大内宿の街路中央には両側に小川が流れ、日本の音100選にも選ばれています。
今は街路の両側にあるこの小川ですが、1886年(明治19年)以前は街路中央に位置していました。
大内宿では荷物の運搬が頻繁に行われていたため多くの馬が飼われ、その馬をつなぎとめるために街路中央に小川が流れていたと考えらています。
宿場町ならではの特徴ですよね。
また、大内宿は半宿半農であったため、一般的な農耕牛ではなく農耕馬を使っていたり、馬を使った商売も行われていたりしたそうです。
村人と馬との間には深い繋がりがあったようですね。
この火見櫓は火災の際に鳴らす鐘のようなもので、昔から変わらず宿の中心に位置しています。
大内宿は山村であり、防災施設が不完全だったため、火災は何よりも恐ろしいものでした。
この火見櫓は村を火災から守るために重要なものであったことがわかります。
火見櫓の正面には高倉神社へ向かう鳥居が立っています。
宿の中央に当然現れる鳥居は、堂々と佇んでいて圧倒されます。
大内宿には平氏に追われ、逃げてきた高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)が潜伏したという伝説が残っているのです。村の人々にとって以仁王がどんなに大切なものであったか伺えますね。
この建物は大内宿内の本陣となっていて、参勤交代の際に殿様が休息をとったところと言われています。
現在は「街並み展示館」という資料館として復元されています。入館料は250円です。
展示館の中には、大内宿形成の歴史や当時使われていた物が展示されています。
館内の中央には囲炉裏があります。
木や鉄が囲炉裏の煙によって漆を塗ったような状態になります。
これがまた味を出していていいですね。
殿様が休んだと言われる上段の間です。
大内宿の奥に位置する観音堂です。
子安観音堂から見える大内宿は立派で、本当に江戸時代にタイムスリップしたような気持ちになります。
所在地:福島県南会津郡下郷町大内山本8
大内宿から伸びる旧道・下野街道を散策して江戸の旅人気分を味わおう!
下野街道は日光街道や会津西街道とも呼ばれ、会津五街道の一つです。
会津若松城下から日光今市を結ぶ街道で、およそ281kmの長さです。
街道には一里=4kmごとに松の木が埋められています。
ウォーキングをしながら見つけてみたいですね。
歴史上の人物はで豊臣秀吉、伊達政宗、吉田松陰そして、イギリスの探検家イザベラバードも歩いた歴史の道でもあります。
普段は整備されていないので歩くのは少し難しいのですが、毎年夏には会津下野街道ウォークというイベントがあり、多くの人と一緒に下野街道を約12km歩くことができます。
また、下野街道には昔のまま残る一里塚や大内峠の頂上にあった茶屋を復元したものもあり、全国歴史の道百選にも選ばれています。
大内宿の奥の旧道を進んでいくと下野街道があります。
5分ほど歩くと道が二股に分かれているので、左に進みます。
この先が下野街道です。大自然の中に昔と変わらずひっそりと残る下野街道を散策するのは、まるで自分が物語の主人公になった気分を味わえます。実際に江戸時代の商人や旅人がここを歩いていたと考えると非常に感慨深いですね。
しばらく歩くと、大内ダムが見えてきます。
大内ダムでは春になると標高が高いところに咲くのが特徴である、濃いピンク色の山桜が咲き誇ります。
また秋には紅葉、冬にはの一面に広がる雪景色を見ることができ、四季を通して散策が楽しめます。
あなたもぜひ歴史を肌で感じられる体験を味わってみてください!
所在地:福島県南会津郡下郷町大字大内字山本
戊辰戦争の戦禍に巻き込まれた大内宿!そこには一体どんな歴史が?
幕末になると新政府の西軍と旧幕府軍の東軍との戦いである戊辰戦争が激化し、1868年(慶応4年)8月になると大内宿にもその戦禍が及ぶことになります。
その名残は大内宿のあらゆるところに見ることができます。
大内宿の奥にある下野街道には、戦場となった古戦場跡や戊辰戦争により大内で戦死した東軍の人々を供養するための墓である二十四人戦死墓があります。
毎年夏には会津下野街道ウォークというものがあり、時の旅人ととなって下野街道をウォーキングするというイベントがあります。毎年多くの人で賑わうそうです。
また大内宿内には逃げ遅れ、戦死した東軍の吉村善七に対し、村の人々が建てた墓があります。
街並み展示館の館内には大内宿に関する歴史的資料が展示されています。
しかし戊辰戦争で西軍に占拠された際に、藁の代わりに和紙の文書で草鞋(わらじ)を作らされていたので現存する資料が非常に少ないと言われています。
江戸時代に整備されたまま今に残る大内宿ですが、なぜ変わることなく残り続けることができたのでしょうか?
その秘密に迫っていきましょう。
戊辰戦争で追い詰められた会津軍の東軍は徐々に北上していきますが、その際、西軍の本拠地にならないよう村を焼き払うというのが一般的でした。
しかし大内宿だけはそれを免れたのです。
その理由は諸説ありますが、村の名主が金品を叩いて願い出たというのが有力です。
また、天皇の庭を意味する大内という名は高倉宮以仁王の伝説があった故につけられた地名であり、格式高い土地を焼き払うことを恐れたためとも言われています。
また、大内宿はに国道から外れ、半宿半農で貧乏だったのからに加え、1960年代、70年代も不自由なく暮らせたことから伝統的に続く茅葺き屋根の古民家を維持できたと考えられています。
所在地:福島県南会津郡下郷町大内山本8
江戸時代に宿場町として盛え、今もなお当時の街並みを残し続けている大内宿。
大内宿には、約400年もの長い歴史が詰まっています。
そんな大内宿を散策しながら江戸時代にタイムスリップしてあなたも旅人になってみませんか?