陸揚げされた海の幸や物資 大陸文化の玄関口 熊川宿の歴史に迫る
熊川宿(くまかわじゅく)は若狭小浜から京都を結ぶ鯖街道の途中にある宿場町です。
大正時代に宿場町として発展し、昭和に入ってからは鯖街道として呼ばれるようになりました。
熊川宿の歴史的発展を見ていきましょう。
若狭の国の歴史を見てみよう! 藤原京の時代から続く若狭の歴史
JR湖西線湖西線近江今津駅から
小浜行きのバスに乗り、鯖街道を北上。向かう先は若狭町熊川宿。
古代において若狭は、御食国(みけつくに)と呼ばれており、天皇の料理を献上する国の一つでした。そのような若狭の献上物を運ぶルートとして
若桜街道が使われていた言われています。
若狭町歴史文化館の課長である永江寿夫さんによると、奈良の都の平城京や、さらに古い藤原京の跡から木簡が出土しており、若狭から贈られた
調(税)の塩や、天皇の食料である御贄(みにえ)としての鯛や貽貝(いがい)などの魚介類の荷札が多く発見されています。
また、上中町には、旧街道のほとりに、宮中の食膳を担当した「膳臣(かもわでもおみ)」一族のものと考えられる大きな前方後円墳が集中しており、若狭
が御食国であったことを物語っています。
また、若狭の国は海産物のみならず、陸揚げされた日本海側諸国の物資や大陸文化の受け入れの玄関口となっており、若桜街道はそのような物資や
文化を運ぶ重要な道となっていました。
ちなみに「御食国(みけつくに)」の「つ」は、目上の人に対する言葉であり、「まつげ」に「つ」が入ってるのもそれに当たります。
今でも主要の道路になっている子の道は、多くの人の命をつないできたと感じました。
献上物を運ぶ街道から宿場町へ 福井県若狭の国と熊川宿の歴史とは
続いて、宿場館で若狭の国と若狭街道の歴史と発展を学びます。
室町中期、足利将軍直属の家臣である沼田氏が熊川に城を築きました。
また、戦国末期には織田信長による越前朝倉攻めの時に、豊臣秀吉・徳川家康を従え、京都から敦賀へと向かう途中、当時この地を支配していた
松宮玄番(げんば)のところに陣宿したことが『信長公記』に記されています。
その後、1926年(大正15年)←西暦も記しましょう、若狭の領主となった浅野長政は、国境である熊川の地の検分を行い、この地が重要であるということを認め、熊川の発展と前川を通すなどの宿場町の整備に尽力を注ぎました。
その結果、最初40戸ほどであった熊川は、200戸を超す宿場町に繁栄しました。
一塩された鯖を京まで運ぶ 熊川宿の若狭街道が鯖街道と呼ばれる由縁
若狭街道が、鯖街道と呼ばれるようになったのは昭和に入ってからのことです。
近世初頭、小浜藩主京極高次によって小浜市場が整備され、流通の一大拠点が築かれました。
「鯖街道」という通称は、この市場の記録「市場仲買文書」に残る「生鯖塩して担い京仕る」という一文に由来されるといわれており、一塩された鯖を
若狭街道を利用し18里かけて京まで運んだことによって鯖街道という名称がつけられたと考えられます。
また、熊川宿の古くからの特産品には葛があります。良質な水と石灰を含んだ土によって育つ葛は、熊川宿の近くの山からとることができ、100kgの葛の根
から3kgの葛粉を作ることができます。このような特産品も、鯖街道を経由し運ばれていました。
所在地 : 〒919-1532 福井県三方上中郡若狭町熊川
若狭や熊川宿が発展するとともに、若狭街道が鯖街道と呼ばれるようになりました。
歴史的な知識を身に着けることによって、鯖街道や熊川宿を見る目線も変化すると思われます。
ぜひ、このような観点からも観光してみてはいかかでしょうか?