浅草のすぐ近くにあった吉原 今はなきものと今もあるものを辿る旅
吉原といえば、誰もが聞いたことのある江戸時代最大級の遊郭ではないでしょうか。
そんな吉原は明暦の大火後、日本橋から浅草の千束(せんぞく)に移転され、現在も遊女たちの歴史と共に大切にされてきました。
少し足を延ばして江戸時代の違う側面を覗いてみませんか。
この記事の目次
浅草にある江戸時代最大の遊郭吉原 入口の吉原大門跡に隠された歴史
東京駅からJR東海道線で上野駅まで約4分、上野駅前からバスで約18分、バス停「吉原大門」で下車して歩くこと約5分、たどり着いたのは「吉原大門(よしわら
おおもん)」という交差点です。交差点の西に立ち、南西に目を向けます。
平坦な道が右へ曲がりくねっています。
曲がりくねった先を進む、今度は左へ曲がりくねっています。
さらに進むと「よし原大門」と書かれた柱が見えてきます。
ここは昔遊郭のあった場所で、遊郭は表立って運営するのははばかれたため、曲がりくねった道にすることにより見通しを悪くし、遊郭街が見えないようにしていたのです。
そしてよし原大門は当初唯一の遊郭への入口でした。
曲がりくねった道は今も尚現代に受け継がれているのです。
また、交差点から目に入る「柳」にも意味があります。
吉原から帰る客が後ろ髪を引かれつつ柳のあたりで遊郭を振り返ったことから「見返り柳」の名付けられています。
吉原大門跡 所在地 : 東京都台東区千束4丁目仲之町通り
浅草の吉原遊郭に祀られたお稲荷様と弁天様を合祀する吉原神社へ
現在の浅草の千束にある吉原は正式には「新吉原」という名称です。
元は1617年に幕府公認の元、日本橋葺屋(ふきや)町に遊女屋が集められました。
しかし明暦の大火で焼失後、吉原が江戸の中心地になっていったため、1655年に浅草の千束村へ移転されました。
吉原大門跡から仲之町通りを南西へ真っすぐ歩くこと約5分、北側に「吉原神社」があります。
新吉原への移転後、5つの稲荷社を1872年(明治5年)に合祀し、その総称が吉原神社にあたります。1923年の関東大震災を期として、玄徳(よしとく)稲荷
社旧地から水道尻付近の仮社殿、そして1934年には現在の位置へと移転しました。
吉原神社の御祀神は倉稲魂命(うがみのみたまのみこと)と市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)です。
倉稲魂命は五穀豊穣をつかさどる「お稲荷さん」で、ここでは5つの稲荷神社のお稲荷さんを祀っています。
吉原神社の境内には移転当初から現在までの吉原の地形の変遷を一目で追える掲示板がありました。
街並みや道路がここまで色濃く残されている意味を考えずにはいられません。
先ほどと対をなすような曲道が近くに見えます。今昔図には、関東大震災後に広大な吉原公園を縮小してこの道を作ったと記されています。
吉原の信仰を集めた神社、吉原神社へ訪れてみませんか。
所在地 : 東京都台東区千束3-20-2
公式HP : 吉原神社
関東大震災と遊女の悲しい歴史を秘めた浅草の名所 吉原弁財天本宮
吉原神社から曲がりくねった道を歩くこと約1分で「吉原弁財天本宮」にたどり着きます。吉原神社の飛地境内地になります。
吉原弁財天本宮の北側の掲示板には、繁華街として賑わっていた吉原の様子や関東大震災について詳しく記されています。
江戸時代初期まで湿地帯だったため数多の池が点在したこの一帯に幕府が遊郭を移転させました。
遊郭造成時に残った池のほとりに建てられたのがこの吉原弁財天です。金運や才能をつかさどる神のため遊女からの信仰も厚かったそうです。
隅にある小さな池が当時花園池・弁天池と呼ばれた池の名残です。1923年の関東大震災で多くの遊女が飛び込み、約490人もの方がなくなったと言われています。
しかし、その池も埋め立てられてしまい、現在では隅に小さくたたずむのみでした。
そのため犠牲者を弔うための観音像が1926年に建立されました。
足元には慰霊碑もあります。
旅した9月には境内の南側に真っ赤な彼岸花が咲いていました。
花言葉の一つに「悲しい思い出」があるこの花は遊女たちの悲痛な叫びを帯びていると感じました。
遊郭のとても大切な歴史を直接語り掛けてくれる貴重な史跡です。是非目を背けずに訪れてほしいと思います。
吉原弁財天本宮 所在地 :東京都浅草千束3-20-2
遊郭の歴史や町の形成と紐付く町を旅しましたがいかがでしたでしょうか。
一言では語り継げない町の歴史の変遷を辿ってみました。
なぜそこに町があるのか、理由を考えながら旅するとまた違う楽しみ方が待っているでしょう。