HISTRIP(ヒストリップ)|歴史的建造物に泊まろう

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江戸時代に国を支える資源になった足尾銅山 栄枯盛衰の秘密に迫る

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    栃木県日光市と言えばたくさんの史跡を思い浮かべる方も多いと思います。
    今回は日本経済の発展に大きく寄与しながらも負の遺産と呼ばれるに至った栃木県日光市の「足尾銅山(あしおどうざん)を旅します。
    学校の教科書ではうかがい知れなかった当時の様子も合わせてもう一度日本史を学んでみましょう。

     

     

    日光が誇る史跡 日本一の産銅量を誇った足尾銅山の歴史を感じよう

     
    新宿駅から出ている特急日光1号で約2時間で東武日光駅に到着します。

    そこから市営バスで約1時間ほど走ると「銅山観光前」バス停前で下車すると目の前に「日本一の鉱都」と呼ばれた足尾銅山が見えてきます。

     

     

    <01nikko 東武日光駅前>

     

     

    <02nikko 足尾銅山入り口>

     
    足尾銅山は、1610年に備前国(現在の岡山県)の百姓、冶部(じふ)と内蔵(くら)が偶然備前楯山で露頭している銅鉱石を発見し、日光座禅院座主に報告したことにより銅山が発見されました。それ以降江戸幕府直営の銅山となります。
    足尾で採掘された銅は、江戸城の瓦に用いられたり海外にも輸出され、国を支える大切な資源となりました。
    その後、寛永通宝(足字銭)が鋳造され、1877年に銅山が古河市兵衛の経営に代わると、最新の技術により産銅量が日本一となり、足尾は人口約4万人の鉱都となりました。

     

    02_nikko-1

     

     

    <03nikko 足尾銅山>

     

     
    しかし、産銅量の急増に伴い、製錬ガスや杭内排水などが増加し、農業被害が拡大します。

    そこで公害の被害者の運動が始まり、足尾鉱毒事件が起こります。

    政府からは鉱害予防小路の実施命令は発令され、1897年から大規模な対策工事と防止技術開発が始まり、戦後の1956年には無公害自熔製錬操業儀実が完成します。

    1973年に閉山するまでの約400年にわたり、採掘・生産を続けた産銅量約82万トンの鉱山の町は、産業遺産と環境の町として、今は地域資源を活かした地域づくりをすすめています。
    バス停を降りると目の前に入園所があり、入坑券を購入できます。
    一定間隔で運行されているトロッコに5分ほど乗り、通洞坑まで移動します。

     

     

    <写真04₋1nikko 通洞坑内部1>
    坑道は全長1,234キロメートル(およそ東京~博多間)もの長さがあり、そのうちの700メートルを実際に歩くことができます。
    坑内の壁はごつごつとした岩壁で覆われており、薄暗く、気温は10℃ほどで真夏の暑い季節でも半袖では肌寒く感じました。

     

     

    <写真04-2nikko 通洞坑内部2 >
    奥へ進んでいくと当時の鉱石採掘の様子を表した人形がリアルに再現されており、江戸、明治、大正、昭和と年代別に当時の様子を伺えます。

     

     

    匠の技 通洞坑を3.3キロも掘進する日光の足尾銅山の採掘法とは

     
    坑内を進むと、当時使用していたさく岩機という機械が展示されていて、実際に触れたり使用した時の感触を味わうことができます。

     

     

    <写真05nikko さく岩機>
    さく岩機というのは、鉱物が入っている岩盤を爆薬で破壊するために爆薬をいれる穴をあける目的で使用されていました。
    今のドリルとは比べ物にならないぐらい大きく、重い機械であり、岩を砕くものなのでスイッチを入れた後の振動はとても迫力がありました。

     

    <07nikko 銅製造過程>

     
    足尾銅山では1885年さく岩機を3台使用して通洞坑を3.3キロほど掘進しました。

     

     

    <写真06nikko 工程>
    また、通洞坑から採れた鉱物を銅に変えるまでの過程も模型で見ることができます。
    焼がまに薪と鉱物を積み重ね、30日間焼き続けた後、鉱石に木炭と珪石を加えて再び溶かす作業を繰り返して仕上げていきます。

     

     

     

    <07nikko 銅製造過程>

     
    通洞坑では鉱物の採掘から銅に変化するまでの過程を見て、触れて、学ぶことができます。

     

     

     

    日光市から生まれ、様々な用途に使用され続けた江戸時代の足尾の銅

     

     
    “坑を出たすぐ隣には、鋳銭座という建物があり、銅から貨幣が作られる工程をミニチュアサイズの人形で再現しています。

     

    08_nikko

     
    工程は全部で8工程あり、厳しい監査の下、時間をかけて鋳造していたようです。

     

     

    <09nikko 貨幣製造過程>
    皆さんは寛永通宝という有名な銅銭をご存知でしょうか。
    歴史の教科書で見た覚えのある人が多いと思います。恐らく皆さんが知っている銅銭は、表面に寛永通宝と書かれているものだと思います。
    その裏面のデザインを知っている方は数少ないと思います。
    なんと、裏面には「足」という一文字が記されているのです。その由来は、足尾銅山で採れた銅を使用し、鋳造されたという証明を表しているのです。

     

     

    <写真10nikko 足字銭>
    施設内では他にも、日本だけでなく世界の通貨や紙幣が、記念硬貨など年代別で見ることができます。
    もちろん撮影も可能なので記念に写真に収めておくこともお勧めです。

     

     

    <11nikko 世界の通貨>

     

     

    日光市の世界遺産登録推進活動中!足尾で生きた人々の暮らしとは

     

     
    通洞坑体験コーナーの次へ進むと、すぐ横に足尾歴史資料館があります。
    足尾歴史資料館は入館料無料で、足尾銅山以外の当時の足尾の暮らしぶりや環境について詳しく学べます。

     
    足尾銅山の世界登録を目指すために集まった方々が運営されており、鉱石の展示や昔の坑内映像などの様々な品が展示されています。

     

     

    <写真12nikko 足尾歴史資料館>

     

     

     

    <写真 13 nikko 鉱石>
    また、足尾銅山の歴史と言えば鉱毒事件が有名です。
    通洞坑の中では歴史的有名な足尾銅山鉱毒事件の状況が記されており、足尾歴史資料館では当時の様子や、対策、政府の動きなど時代が記されています。
    子どもが遊べるようなスペースもあるので、友人やカップル同士だけでなく親子で来ても子どもたちが退屈することなくリラックスして過ごすことができます。

     

     

    <14nikko 足尾銅山資料館>

     

     

    <写真15nikko 足尾銅山資料館>
    開館時間は9:00~15:30で、・土・日・祝日と日程も限られています。
    また、11月下旬~3月まで冬季期間中は休館してるなど注意点がいくつかあるので訪れる際には必ず事前にチェックしましょう。

    今まで学校の日本史の授業で習ったことしか知識がありませんでしたが、教科書には載っていない足尾銅山の秘密をたくさん知ることができました。鉱毒事件が起きた当時の状況、現在でも事件の影響が残ってしまっていることなど私たちが知らない事実で溢れていました。ほとんどの人が知らない足尾銅山の隠れた歴史を学びに是非皆さんに訪れてもらいたいです。

     

     

    足尾銅山 所在地 : 栃木県日光市足尾町通洞9-2 JR東武日光駅から市営バスで約53分

     

     

     

    私たちが普段使っている貨幣の歴史を作り、当時の生活には欠かせないものを生み出した足尾銅山には、東照宮には負けないぐらいの魅力が詰まっています。
    日光市の自然を感じたり、日本史の授業では学ばなかったたくさんの歴史を知ることができます。

    きっと旅する前とは違う目で日本を見ている自分に出会うでしょう。