岡山県倉敷市美観地区にある貴重な美術館の歴史を体感してみよう
岡山県倉敷市に位置し、日本を代表する日本初の西洋美術館である大原美術館。
その館内には児島虎次郎の貴重な収集品や世界的に有名な絵画がたくさんあり、それらの絵画は後世の学問のために集められたものばかりであるため、年代を問わずに楽しめ、大原孫三郎や児島虎次郎の人物を知ることで倉敷の魅力を体感できます。
この記事の目次
倉敷に日本初の西洋美術館 大原美術館を訪れモネの睡蓮を見に行こう
大原美術館は倉敷美観地区の中にある美術館であり、倉敷駅から10分ほど歩けば行くことが出来ます。
この美術館は、1929年に西洋画家の児島虎次郎が亡くなったのを悼み、
大原孫三郎が建設を計画し、総社市出身である薬師寺主計の設計で日本初の西洋美術館として誕生しました。
大原美術館が建てられたその想いとしては、作品を後世のために残すためです。
開館当初に建てられた本館の正面には、ロダンの『カレーの市民』や『預言者ヨハネ』の像があり圧倒されます。
そして館内には児島虎次郎の貴重な収集品やエル・グレコの『受胎告知』やクロード・モネの『睡蓮』などの世界的名画もあります。
美術館の外にあるモネの睡蓮の池が存在する背景には、本館で展示している油彩画「睡蓮」が関係しており、
大原美術館の基礎となる西洋絵画の収集にあたった洋画家児島虎次郎が、1920年の秋にジヴェルニーを訪れ、モネ本人から直接購入したものでありました。
このご縁がきっかけで2000年に遠くジヴェルニーからこの大原美術館に睡蓮の株が送られ、その株が育ったものが現在のモネの睡蓮の池となっていますので、
是非訪れて、実際のモネの睡蓮の池を見て歴史を体感してください。
実際にモネの睡蓮や美術館を見た時に、門構えが威風堂々としており、かなり圧倒されました。
大原美術館 所在地 : 岡山県倉敷市中央1-1-15
倉敷のキーパーソン 大原孫三郎と児島虎次郎の関係性を読み解く
児島虎次郎は1908年から足掛け5年もの間、大原孫三郎の援助によってヨーロッパに留学していました。
そして実は彼はその後も大原の援助で2回渡欧しています。
そしてその主な目的は画業の研鑽でしたが、 児島虎次郎は、ヨーロッパへ行く機会のない多くの日本の画家たちのために、
西洋名画の実物の実物を日本へもたらすことの必要性を大原孫三郎に説いたのです。
そして大原は児島の考えに賛同し、こうして児島はヨーロッパで多くの西洋絵画を購入することになりました。
のちの1929年に児島虎次郎がこの世を去り、児島の死を大いに悲しんだ大原孫三郎は児島の功績を記念する意味を持たせるとともに、
後世の勉強のためにも、その翌年に日本初の西洋美術館として大原美術館を開館し今に至ります。
これらの写真のように、 開館当時に建てられたギリシア神殿風の本館正面にロダンの「カレーの市民」と「預言者ヨハネ」のブロンズ像が立っており、見た瞬間に思わず鳥肌が出てしまいました。
また倉敷美観地区は夜の6時を過ぎると、全体がライトアップされ、大原美術館も昼の大原美術館とは違う何やら幻想的な雰囲気を醸し出しており、ついつい写真を撮ってしまいました。
大原美術館 所在地 : 岡山県倉敷市中央1-1-15
大原氏が愛した家族のために建てた有隣荘の歴史や背景を読み解く
倉敷美観地区を歩いていると有隣荘(ゆうりんそう)という建物に出会います。
この建物は大原孫三郎が家族で住むために建てた大原家の旧別邸であり、大原美術館の対面にあり大原美術館から5分もかかりません。
主な特徴としては屋根が中国の孔子廟を模して黄緑色の泉州瓦が使われており、その色合いから緑御殿という呼び名もあります。
建物は1928年に完成し、1935年には大原美術館が財団法人化された際、大原美術館の管理下に入りました。
また当初は倉敷の迎賓館としても利用できるように設計されており第二次世界大戦後、あの昭和天皇も宿泊したこともあるそうで、その話を聞いた時に有隣荘をはじめとした倉敷美観地区は歴史息づく場所だと切実に感じました。
しかし現在はなかなか中を見ることができる機会が少なく、内部を見ることができるようなイベントなどがあれば是非、実際行ってみてほしいと感じています。
有隣荘 所在地 : 岡山県倉敷市中央1-3-18
大原美術館は、美術館だけでなく歴史ある町並みも見ることができる上に、お土産さんも充実しているので満足度も高いです。
そして川舟などの体験も可能なので自然に囲まれながら舟に乗り、町の歴史を体感するのもおすすめです。