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合掌造りと集落を別視点から 世界遺産 五箇山の生活文化に迫る

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    富山県南砺市は世界遺産に登録された大きな相倉合掌造り集落で有名です。のどかで日本の原風景という印象の五箇山ですが、実はその地下では軍事機密に値する産業が行われていました。
    五箇山は、日本最大の火薬の材料である塩硝の産地であったことでも知られているのです。

     

     

    鉄砲と火薬の伝来からはじまった 五箇山の焔硝産業の歴史

     

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    五箇山三大産業のひとつで火薬の原料になる「塩硝」。五箇山の塩硝は「加賀塩硝(かがえんしょう)」と呼ばれ、加賀藩に重宝されました。人里離れたこの土地で、どのように産業として発展したのでしょうか。菅沼合掌造り集落の「塩硝の館(えんしょうのやかた)」で、焔硝の歴史について学びます。
    【日本における火薬のはじまり】
    火薬の始まりは、鉄砲でした。
    1543年種子島に鉄砲が伝来します。そこから戦では刀と火縄銃が使用されるようになりました。火縄銃は黒色火薬を使用します。黒色火薬は硝石(硝酸カリュウム)、硫黄、木炭の混合によって生成されるのです。
    そこで硝石が大量に必要になります。硝石は天然鉱石として、降水量の多い日本ではほとんど産出されなかったため、ほとんどを輸入に頼っていました。主となった貿易地が大阪の堺だったといいます。まもなく本願寺の仲介で国産化に至り、本願寺は密約を破り火薬の製法の秘伝を1559年上杉謙信に伝えました。
    【五箇山と焔硝のつながり】
    1570年には、本願寺の勢力が五箇山に深く浸透していたため、本願寺の仲介で五箇山へ技術者が派遣され、1572年には五箇山から日本海経由で石山城へ火薬が運搬されました。その際に、五箇山の硝石を使って本願寺火薬が作られた記録が残っています。
    このように古くから塩硝が造られ、実際に活用されていたのですね。

    余談ですが、織田信長が勝敗を納めた長篠の戦い。火縄銃を大量に持ち戦いました。これは1575年のこと。織田信長とは異なるルートでその人工的な生産の方法が五箇山に伝わり、改良されていったのです。

     

    五箇山上平村「塩硝の館」で塩硝製造工程を学ぶ

     

     

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    続いて、一般的には、焔硝をどのように生成していたのでしょうか。
    【一般的な焔硝の作られ方】
    硝石の成因は、空気中あるいは土壌中のアンモニアを酸化して硝酸とする、硝化バクテリアの働きによりアンモニアから亜硝酸が作られるます。水に溶けやすい硝石、雨で流出しない場所に堆積します。そのため建物の縁の下などには硝石が結晶していたようです。
    硝石の生産は床下からの採取土を煮詰めて精製するものでした。火薬原料は二度煮詰めて生産、三度煮詰めて薬品原料が製造されるといわれています。

    一般的な手順は、炎天下で刈り取った草を1日干し、30センチから60センチの高さに積み上げた土の上に、切り刻んだ干草を敷き詰めます。
    その上から、下水のたまり水、風呂の水、古池の腐り水、魚のはらわたや鳥の死骸などを漬けて腐らせた水をかけます。これを塩硝床というそうです。
    この作業を3年ほど繰り返し続けるとやっと硝石が取り出せます。

    【五箇山の焔硝づくり】
    五箇山での焔硝の作り方は、硝化バクテリアが寒い冬でも活動できるように、囲炉裏のそばに穴を掘って、1間四方ぐらいの空間を作り、わら、蚕のフン、ヨモギ、土を重ねて入れて、数年寝かせておき、土に成分が移った頃にその焔硝土を煮詰めて煙硝を抽出する方法だったようです。養蚕も同時の行っていたため、蚕のフンが使用されたのですね。

    最近になって塩硝床を復活しようとしましたが、塩硝の硝酸菌がいなくなっているらしく、塩硝は生成しなかったとの記録も残ります。

    所在地 : 塩硝の館 〒939-1973 富山県南砺市菅沼134

     

    加賀藩と通じた五箇山 隔離され地下に潜み産業を営んだ歴史とは

     

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    【なぜ五箇山で焔硝がつくられたのか】
    五箇山の塩硝は地下で作られました。それは、1つに焔硝ができる環境であったこと、2つに、現在の石川県にあたる旧加賀藩の軍事機密だったためと言われています。貴重な塩硝を幕府にも秘密で手に入れるため床下で生産するように命じていたようです。さらには、五箇山の村全体で作るように命じたそうです。

    加賀藩は1600年代の始め以来藩政の崩壊まで、富山県の五箇山の村々で生産された硝石を大量に買い上げました。特に江戸時代、最盛期の1865年頃、年間39トンもの塩硝が生産され、加賀藩に買い上げられています。当時、その質と量は、共に日本一の座にあったと言われています。

    塩硝は生産地が限られていました。
    五箇山の人々はこの作業場を確保するために、地下と1階部分もあわせて家をどんどん大きく広げたそうです。

    加賀藩は農民の金銀貸借など一切禁じましたが、五箇山住民には城端や井波の商人を通じ、借銀・貸米・貸塩が認められていました。その理由は塩硝や藩用の和紙の生産地として生産者の生活を保障し、特別な配慮があったものと伝えられています。

    軍事機密のため、橋を渡せなかった五箇山が利用した籠の渡しとは

    【焔硝づくりがもたらした五箇山への影響】
    五箇山地域一帯には一級河川である庄川(しょうがわ)が流れていますが、旧加賀藩は、軍事機密のために庄川にも橋を渡しませんでした。

     

     

    <16_gokayama_地図>

     
    地図の右上から左下にかけて伸びる、薄い緑の線が庄川です。橋が無い中、何で反対側まで移動していたかというと・・・

     

     

    <17_gokayama_菅沼橋>

     

     

     

    <18_gokayama_籠の渡し>
    こちらの「籠の渡し(かごのわたし)」を使っていました。
    実物は菅沼合掌造り集落にある五箇山民俗館の2階で見ることができます。
    大きさは大人ひとりがなんとか乗れるくらいです。

     

    <19_gokayama_川と籠の渡し>
    写真の左側に、小さく籠の渡しが写っているのが見えますでしょうか?
    このように、川の両岸に張り渡した縄に掛けて、川を渡っていました。

     

     

    <20_gokayama_川のアップ>
    菅沼橋の長さは115m、そしてまったく底の見えない深い川。
    もし自分がここを籠の渡しに乗って渡ることになったら・・・と想像するだけで、足がすくんでしまいます。

     

     

    <21_gokayama_五箇山民俗館の説明文>

     

     

    かつて川を渡る手段はこの籠の渡しのみ。かつて五箇山はその地域の特性から、罪人の流刑地としても使用されていました。
    流刑地として流された罪人は最初にこの籠の渡しを川の真ん中で揺らしたそうです。罪人は恐怖で脱走することをあきらめたといいます。
    籠の渡しが採用された理由は、流刑地であり軍事機密の焔硝も生産していた五箇山に、他から人が入って来にくくしようとした。また焔硝を持ち出すことができないようにし、加賀藩の思惑のためだったといわれています。

     

     

    所在地 : 五箇山民俗館 〒939-1973 富山県南砺市菅沼436

     

     

     

     

     

    五箇山の焔硝やその歴史はいかがでしたか。加賀藩の思惑によって、焔硝が造られただけではなく、焔硝づくりがもたらした影響は、人々の生活にも建築の様式にも現れました。
    さらには町全体が孤立するようになります。時を経て世界遺産にまで登録される価値の高い文化は様々な環境で作られたのですね。ぜひ一度訪れてみてください。

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