HISTRIP(ヒストリップ)|歴史的建造物に泊まろう

HISTRIP MAGAZINE icon HISTRIP MAGAZINE

広島城の魅力と歴史を徹底解説 知れば何倍も楽しくなる歴史とは

  •  

    中国地方の最大都市として栄える広島市は、広島城を中心とした城下町として発展し現在の形となります。市街地の中心にある広島城は板張りでとても美しく、町のシンボルとして人々に愛され続けています。
    そんな広島城、実は美しいだけではなく、奥深い歴史が隠れています。広島城を何倍も楽しむために、広島城を徹底解説します!

     

     

    広島城の築城に大きく関わった豊臣秀吉、毛利輝元との関係の歴史

     

     

     

     


    <写真01_hirosima広島城お堀>

     
    広島城を建てたのは毛利輝元。この広島城の築城には大きく豊臣秀吉が関わっていました。1582年、備中高松城の戦いが起こります。秀吉は毛利氏に忠義を尽くす家来・清水宗治が守る備中高松城を攻撃しました。この戦いの最中に本能寺の変が起き織田信長が亡くなってしまいます。
    秀吉の上司にあたる信長が亡くなったと知れば、他の勢力とともに織田方の勢力を破りに来ると考えた秀吉は、毛利方に知られないように毛利側の外交僧の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に働きかけ、早期の講和を実現しました。

     

    講和の条件として清水宗治が自害したのち、毛利方は信長が亡くなった事実を知ります。一部の家臣から秀吉を破りに行くという意見も上がりましたが、毛利方は「一度講和で決定した約束を翻すのは武士のやることではない」として秀吉を攻撃をしませんでした。
    そうして秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破り、一気に天下人へ。

     

    この時に毛利方が秀吉を追撃をしなかったことが秀吉の助けとなったため、毛利氏が秀吉に可愛がられるようになります。その後、毛利輝元は、秀吉の傘下に入ります。

     

    秀吉なくしては広島城の築城は無かった!

     

    <写真02_hirosima大本営跡地>

     

    広島城が築城される前、平安から室町時代にかけての広島は、小さな島や砂洲(さす)が深い入り江に点在したような太田川河口にある三角州だったという記録が残っています。
    埋め立てないと人が住むことは難しい土地に、なぜ城を築城することを決めたのでしょうか。そこには秀吉の大きな影響があったのです。

     

     

    秀吉の傘下に入った毛利輝元は、1588年に秀吉に招かれ大坂城や京都の聚楽第を訪れました。そこで近世城郭の重要性を痛感することになります。武家町よりも商人町の割合が広く取られ、日本の商業の中心地とされるほどに商いが盛んで活気があふれるまちなみ。海上物流の拠点で貿易が盛んな港町。
    すべてが自身の城下にはありませんでした。
    毛利氏の居城であった吉田郡山城は、山の奥深くにあり、政治や商業の中心地としては手狭だったのです。

     

     

    広島に戻った輝元は、大阪城をヒントに海上交易路である瀬戸内の水運が活かせ、大きな城下町を造れる海沿いの平野に拠点を移すことを決意しました。
    1589年から広島城の築城をはじめ、1591年に広島城に入城しました。秀吉の側近で築城の名人とされた黒田官兵衛も関わったとされます。

     

     
    のちに広島城を訪れた秀吉は大喜び!城を賞賛したという記録が残っています。さらには、広島城は秀吉の朝鮮出兵における前線基地として、名護屋城と大阪城を海路で繋ぐ中継基地としても整備されました。
    その後、関ケ原の戦いにて西軍の大将を務めていた毛利輝元は、山口県の長門に封じられることとなります。

     

    原爆の被害にあってもなお人々を支えた広島城

     

     

    <写真04_hirosima広島城天守閣>

     

    原爆で一瞬のうちに瓦礫の山と化した広島の町並み。広島城はどんな状態だったのでしょうか。

    なんと広島城はもともと熱に強い造りであったため、熱線には耐えることができました。その後、斜めに押しつぶされるように倒壊してしまいました。

    倒壊した原因も明らかになっています。原爆の爆風により天守閣の下二層が柱を破壊されたことが一番の原因。上3層は形を保ったまま、下にずり落ちてしまい、その後しばらくは形を保っていたものの、間もなく残りも柱が支えきれず崩壊したとされています。

    天守閣跡地に大量の燃えていない木材が残っており、二の丸の表御門・平櫓・多門櫓・太鼓櫓は消失しましたが、天守閣自体は燃えておらず、のちに建材やたきものにするために使用されました。
    壊れてもなお、広島城は広島市民を支えたのですね。

     

    近世広島の象徴 町と軍事の中心地 日本百名城の平城広島城を訪れる

     

    アストラムライン城北駅を下車して徒歩10分、広島市中央公園の内部に位置する広島城を訪れました。

    13_hiroshima
    お堀は全面水が張られています。太田川の三角州地帯にある広島城の特徴といえます。
    さて、広島市中央公園の奥まで進み、石垣を横目にすぎると、広島城天守閣にたどり着きます。

     

    <写真05_hirosima広島城館内風景>

     

     
    天守閣内部は展示室となっています。毛利輝元により築城された広島城と城下町発展の歴史が展示されていました。
    他に武士の甲冑の展示、展望室や甲冑の試着コーナーなどがあり、武家文化が味わえるつくりとなっていました。

     


    <写真06_hirosima刀の重さ>

     

     

    内部はきれいに整備されていましたが、寄贈されている展示に江戸時代の面影を感じました。
    所在地  :広島県広島市中区基町21-1

     

     

    広島城の歴史に触れる旅はいかがでしたか。一見広島城とは何も関係のないと感じる豊臣秀吉まで広島城の築城にはかかわっていたのですね。さらには原爆の際に人々を支えた広島城。少し違った見方もたのしみつつ。歴史の知識をもってぜひ答え合わせを楽しむ旅にでかけてみてはいかがでしょうか。

     

     

     

    このマガジンにおすすめの目的地