まかべの民話となった住宅を巡る町歩き 歴史ある物語の地を訪れよう
茨城県桜川市に伝わる9つのまかべの民話。
その中のひとつ「上の鶴屋、下の鶴屋」に出てくる鶴屋を屋号にした2つの豪商が、潮田家(うしおだけ)住宅と古橋家(ふるはしけ)住宅です。
物語の地を巡り、明治・大正・昭和と続いた豪商の歴史を覗いてみましょう。
この記事の目次
登録文化財第一号 関東の三越と言われた「鶴屋呉服店」潮田家住宅
真壁高上町駐車場より徒歩約4分。
数ある真壁の登録有形文化財のうち、第一号に文化財に登録されたのがこの潮田家住宅です。
元呉服太物商鶴屋として店を構え、明治時代の見世蔵・袖蔵・脇蔵・別荘が文化財に指定されています。
正面入り口がとても広く、全面開放になっています。
見世蔵の隣の袖蔵はとても背が高く、写真を撮影するときになかなか収まりきらないほどでした。
扉が開いていて、中に入れるようになっていたので中も撮影させていただきました。
住宅の中には、昔の鶴屋呉服店の提灯や鶴屋商店だった看板が飾られています。
真壁の町並みの中でも、御陣屋前通りの角地に一際大きく目立っていました。
まかべに伝わる民話「上の鶴屋、下の鶴屋」には、この豪商潮田家が登場します。
この民話は、
「明治~昭和の初めにかけて田舎の三越とも呼ばれた鶴屋呉服店(潮田家)と、その通りにあるもう一方の大きな荒物屋 鶴屋(古橋家)が主人公です。
同じ鶴屋という屋号を持ち、どちらも繁盛していた事から、町の人が呉服屋を「上の鶴屋」、荒物屋を「下の鶴屋」と呼び始めた」
というお話です。
下宿通り(しもじゅくどおり)から見てもとても大きな住居だと分かり、当時の鶴屋の豪商ぶりが伺えます。
所在地 : 茨城県桜川市真壁町真壁189
下の鶴屋と呼ばれ民話になった荒物屋「鶴屋」失われた古橋家住宅
まかべの民話の一つに「上の鶴屋、下の鶴屋」という話があります。
潮田家住宅は上の鶴屋として登場すると紹介しました。
この古橋家はもう一つの主役である下の鶴屋として語られています。
「大きな呉服屋鶴屋から30mほど南の浦町の愛宕神社(あたごじんじゃ)の隣に同じ屋号の鶴屋(古橋家)という大きな荒物屋がありました。
浦町を通る人はみんな鶴屋のお客だと言われるほど繁盛していたといいます。」
この大きな荒物屋を町の人は「下の鶴屋」と呼び、民話の「上の鶴屋、下の鶴屋」ができました。
実は、この荒物屋鶴屋(古橋家)は東日本大震災による被災のため、維持が困難となり、現在は失われてしまいました。
震災前には飯塚愛宕神社の北に1885年(明治18年)建築の本格的な見世蔵が建っていたそうです。
真壁を実際に訪れ、町歩きをしたからこそ見えてきた震災の被害が多くありました。
東日本大震災後、多くの文化財は修理によりもとの姿を取り戻しつつあります。
震災の影響で壁の塗装が剥がれるなどの状況が伺える中村家住宅ですが、完全な形ではないものの修復作業を経て姿を取り戻し、当時の面影を今に伝えています。
これらの貴重な有形文化財が少しでも長く、数多く、未来へ受け継がれて欲しいという思いを強く抱きました。
所在地 : 茨城県桜川市真壁町
鶴屋と共に真壁町中心分の街並み景観をつくる貴重な遺構 高久家
真壁高上町駐車場より徒歩約5分。
真壁の中央に高久家住宅があります。
高久家が真壁に移り住んだのは16代前と伝えられています。
明治に建てられた店舗が登録有形文化財に指定されています。
この店舗の当初の職種や店を構えた時期は明らかではありません。
しかし、先代までは肥料商を営み、戦後には商売をやめて1934年(平成9年)までは住居として使用されていたようです。
現在はまかべのひなまつり時期にのみ解放されています。
ひなまつり期間中はカフェや地元産品の販売、町の案内所として、高久家が拠点となり町を支えています。
東日本大震災で壁や屋根が崩れ所有者が取り壊そうとしていたところ、
町の人から「ぜひ歴史的建造物として残してほしい」と声が上がり、所有者が市に建物を寄付しました。
文化財を利用した新たな町の拠点となった高久家住宅は、「御陣屋通り(ごじんやどおり)」を挟んで向かい合う潮田家と共に
真壁の中心部の町並み景観を特徴づけています。
真壁の町並みを広く見渡せる中心の大通りなので、街に自分が包み込まれているような感覚になりました。
ぜひこの温かい真壁の町並みに包まれてみてはいかがでしょうか。
所在地 : 茨城県桜川市真壁町大字真壁191
真壁に伝わる民話の旅はいかがでしたでしょうか。
昔生まれた民話が今に語り継がれ、実際にその地を訪れることができるのは素敵ですよね。
震災や生まれ変わる文化財の姿など、過去と現在、そして未来に想いを馳せる「時の街歩き」ができます。
そんな貴重な旅を、みなさんも体験してみませんか?