HISTRIP(ヒストリップ)|歴史的建造物に泊まろう

HISTRIP MAGAZINE icon HISTRIP MAGAZINE

知覧で日本軍隊 究極の作戦「特攻」の史跡をめぐる旅へ

  •  

     

    太平洋戦争末期、陸軍の特攻基地が置かれた町、知覧。
    未来ある多くの若者が命を捧げ散っていった過去がここ知覧には多く残っています。平和な時代に生まれ過ごす私たちはどんな想いをもって過ごすべきなのか。自分に再度向き合う旅になること間違いありません。戦争の史跡をめぐり、自分と向き合いましょう。

     

     

    捧げた命と生きたかった言葉が残る知覧平和会館と知覧平和観音堂へ

     

    02_chiran

     


    鹿児島空港から約1時間。知覧武家屋敷からバスで約10分。特攻平和会館へ到着します。
    館内に入るとすぐに、「知覧鎮魂の賦」という絵画がありました。突撃し海に沈みゆく機体から天女が隊員を天国に連れて行く様子が表現されていました。こうした絵をみると、少し気持ちが浮かばれるようでした。

    ここ、特攻平和会館では、第二次世界大戦末期、太平洋戦争にて、沖縄戦で華々しく散っていった特攻隊員たちの出撃直前に書かれた遺書や遺品、軍服などの他、特攻機などが展示されています。
    特攻隊員の平均年齢は、21.6か月。そんな未来あふれる隊員たちの手紙の中には、婚約者にあてた手紙や、母親と父親に先に逝くことの許しを請う手紙。
    最後まで家族の心配をする手紙などがあります。

    多くの人が訪れますが、館内では各々が静かに隊員が残した手紙や日記を涙ぐみながら見入っています。私も1通の手紙の前から離れることができなくなりました。
    その手紙は愛する婚約者へあてた手紙です。
    この後死にゆく自分に残された最後の言葉は、女性の幸せを願うものばかりでした。

    知覧特攻平和会館のすぐ近くにある「特攻平和観音堂」に到着しました。特攻で戦死された人たちの名前が入った灯篭が平和観音堂に行く道に立ち並び私たちを迎えてくれます。特攻平和観音堂の中に入ると、金色をした優しいお顔の観音様が静かに佇みほほえんでるように見えました。戦争で亡くなった沢山の命を癒し、平和を願う象徴として祀られていました。
    多くの人が手を合わせ同じ日本で起こった事実に向き合っていました。

    私自身も、こうした歴史が日本にはあるということを改めて向き合い、日本を背負ってくれた先人たちの未来を背負って生きていきたいと感じました。

     

     

    特攻隊員が遺書を書き、最後に過ごした場所三角兵舎へ

     

    05_chiran

     

     

    約70年前、知覧飛行場跡地に立てられた平和会館周辺には、今も残る戦争の爪痕が残った遺跡を見ることができます。

    平和会館から歩くこと約1分。知覧特攻平和会館のすぐそばに「特攻平和観音堂」があります。特攻隊員が国のために身命を捨てて尽くした、精神をたたえ、世界の恒久平和を祈念するために建てられました。
    静かに手を合わせます。

     
    平和観音堂の隣には三角兵舎と呼ばれる、特攻兵が人生最後の数日間を過ごすための宿舎が再現されていました。半地下式で木造、地上からは三角屋根だけが見えたので三角兵舎と呼ばれていたそうです。
    出撃前夜、ここでは、遺書が書かれたそうです。特攻兵たちは個々に誰に何を思い過ごしていたのでしょうか。
    当日の朝、特攻隊員たちは薄暗くジメジメした三角兵舎の中で、当番兵が運んできた最期の朝食である、浅草海苔と生卵、味噌汁に白いご飯などを食べて出撃したそうです。

    実際に中に入ってみると、確かにとてもジメジメしていました。三角兵舎野中には、全国の女学生から贈られた人形を見て喜ぶ特攻隊員たちの写真が展示されていました。彼らの笑顔は胸が締め付けられるようでした。

     

     

     

    特攻隊員が母と慕い特攻出撃前に会いに行った鳥濱トメをめぐる

     


    <02-1_chiran_知覧の鳥濱トメ説明>

     

    03-2_chiran_%e5%af%8c%e8%b0%b7%e6%97%85%e9%a4%a8s

     

     

    1929年に開業した冨屋食堂。その後、1942年には帝国陸軍の指定食堂となり、多くの特攻隊員が訪れるようになります。
    冨屋食堂のおかみ鳥濱トメは、特攻隊員をわが子のようにかわいがり、特攻隊員たちに「お母さん」と慕われ、特攻隊員の心の支えになっていきました。

    現在、食堂だった建物はホタル館と名前を変え、特攻を伝える資料館になり、当時特攻隊員たちがトメの元を訪れ過ごしていた別館は、現在冨屋旅館として、多くの人々に居の地の大切さを伝える場所となっています。
    富屋旅館の中にある当時特攻隊員たちがすごしていた部屋はトメ観音像が置かれており、トメは生前、知覧特攻平和会館にある観音様と合わせて、自宅にも観音堂を作り、毎日観音像に手を合わせていたそうです。

     

     

     

    08_chirans

     


    出撃直前、特攻隊員たちが最後に見た日本の土地「開聞岳」

     

    06_chiran

     

     

    鹿児島空港から約1時間。知覧にある特攻平和会館から車で約5分。
    知覧の特攻隊たちがみる最後の景色であった開聞岳(かいもんだけ)の見える一番近い場所に到着しました。
    当時ここは滑走路だった場所で、今では時が経ち、サツマイモ畑になりました。うっすらときれいな頂点が見える山が開聞岳です。
    この写真の景色はちょうど離陸するときに開聞岳を目指すように飛んだ特攻隊員たちが見た景色と同じものです。
    一体若き何人の特攻隊員たちが想い偲んだでしょう。
    開門岳のスポットに行くまでに広々とした知覧茶畑も広がっていました。青々と緑が太陽に照らされてきれいに光っていました。
    まるで一つ一つ輝いている命みたいだと思いました。

    所在地 :鹿児島県指宿市開聞十町

     

    飛行場跡地に点在する戦争の爪痕から当時を見つめる「戦争遺跡巡り」

     

    08_chiran

     

     

    平和会館から歩いて約5分ほどのところにある油脂庫。表面には昭和20年3月以降米軍による空襲を受けた跡による傷です。
    約70年前、今私が立っている場所に爆撃が落とされていた真実に想いをはせます。
    こちらは給水塔。主に飲料水や飛行機の整備のために建てられ、特攻隊員たちの命の要でした。
    少し傾いている姿に時の流れが伺えました。
    給水塔のすぐ近くには防火水槽がありました。端々が爆撃によってかけている姿は当時の様子を鮮明に物語っていました。

    所在地 :鹿児島県南九州市知覧町郡17881

     

     

    日本が持つ悲劇の歴史、知覧特攻の歴史巡りはいかがでしたでしょうか。特攻隊の歴史を知ることで、自分の人生をもって、何を今後紡いでいくのか、考える機会になりました。
    特攻隊員が必死に生きたその当時を見ることで、生きることを学ぶ場所。そんな知覧にぜひ一度訪れてみてください。