約200人が散華した「出水基地」特攻碑公園で遺構を訪れる旅へ
南海に散華した特攻隊員は、陸海軍合わせて約6,000人。うち、航空特攻隊員は約4400人。中でも鹿児島県知覧基地からは439名と世間には知られている場所ですが、実は鹿児島県の出水基地からも約200名の特攻戦没者がでました。今もその記憶は町の至るところに存在します。今回は特攻碑公園で特攻の遺構をめぐりましょう!
南海の果てに散った若き特攻隊員たちの生きた証有る地「特攻碑公園」
JR出水駅から車で約10分。緑生い茂る桜の並木通りを歩いていくと、住宅地に溶け込むようにして佇む当時の出水飛行基地の敷地内だった場所が見えてきます。いまでは特攻碑公園として、特攻に関する史跡や石碑が残り、多くの人が訪れます。
出水飛行基地は1938年に建設され、1940 年から飛行機の発着が始まり、1943年に出水水軍航空隊として開隊されました。当初は教育航空隊でしたが、戦争に敗北の色が濃くなるにつれ、特別特攻隊の基地として使用されるようになります。
公園内には特攻碑と、若き英雄たちの名を連ねた慰霊碑がありました。
特攻碑には、阿川弘之の小説「雲の墓標」の石碑が刻まれていました。
「雲こそわが墓標 落暉よ碑銘を飾れ」
「沖縄の海の底深く身を沈めるからには、もちろん遺骨などあるはずがない。自分は墓もいらない。大空に浮かぶ雲こそ自分の墓だ。美しい夕陽よ、もし慈悲の心があるなら自分の墓である雲を紅く彩ってくれ」という、南の空に散っていった若き特攻隊員たちの心境を詠んでいます。
裏面にも碑文が刻まれていました。
「吾らに代わりて 代わりなき若き命を南海の千尋の底に沈めし若き勇士たちよ 今日よりは安らけく瞑れ」
約200名の命のもとに、今ある平和に感謝をし、冥福を祈ります。
知覧に完全な形で残る数々の命を守りぬいた鉄の穴「地下壕」体験
特攻碑公園内で隠れるようにして存在する地下壕がありました。当時のまま完全体で残っています。現在地下壕に入ることができる鹿児島県内唯一の施設だそうです。
実際に入ることもできました。入り口付近には弾丸が当たった跡が。冷たい空気が頬を撫でます。当時の恐怖が伝わってきます。
三段階に分けられた下り階段をひたすら下っていきます。一番下まで下った先には、驚くほどの広い避難スペースがありました。当時どれだけの人が爆撃音で満たされる中避難し、ここで怯え耐え忍んだのでしょうか。感慨深い場所です。
暗いこの鉄の穴が多くの若い命を救っていたのだと考えると、今ある命が当たり前のものではないと実感することができます。
悲しい過去から、生きることを学び、命について振り返ることができる、大切な場所でした。
所在地 :鹿児島県出水市135平和町 899-0217
出水特攻基地に残る特攻の歴史をつなぐ遺構をたどる
特攻碑公園内には、衛兵塔(えいへいとう)という哨舎(しょうしゃ)が当時のまま顕在していました。警戒・監視などの任務につく兵士が在中していたところのようです。
航空隊正面通路に対面して建立され、基地に入る通行者の監視と警戒に当たっていました。当時衛兵は常に銃を携帯し、下士官・兵の敬礼には「気を付け」
の姿勢をとり、士官の通過に対しては儀礼上最高位の敬礼とされる「捧銃(ささげつつ)」の礼を行ったそうです。
外壁には弾丸が当たり崩れた跡がありました。当時の恐怖と死を物語っています。
特攻碑公園内の奥には近海より引き上げられた日本軍のプロペラも展示されています。そのプロペラの大きさに迫力を感じることができました。
プロペラの大きさから飛行機の大きさが想像でき、一人で大きな戦隊気に乗って特攻へ向かった事を想うと、孤独を感じました。
3枚羽の機体は1945年4月26日に出撃した一式陸上攻撃機の左エンジンのプロペラだそうです。桂島沖から漁船により引き上げられました。乗員の遺体は長島沖で発見されたそうです。安らかな眠りを祈らずにはいれませんでした。
特攻碑公園で特攻の遺構をめぐる旅はいかがでしたでしょうか。出水特攻碑公園には、第二次世界大戦で尊い命を国のため、大切な人のために捧げた若き命が祀られていました。
現代に生きる私たちが学ぶべきことを、教えてくれる場所です。