会津戦争を象徴する悲劇 白虎隊ゆかりの地をめぐる旅行
白虎隊とは会津戦争の際に急遽16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊です。会津戦争は彼らの初陣でした。幼いながら藩主のために戦い、最期は鶴ヶ城を眺めながら武士の誇りをもって己らの判断により20人で自害します。
そんな白虎隊の初陣の命を受けた場所からお墓まで全部で7つのゆかりの地を巡ります。
この記事の目次
重要指定文化財の旧滝沢本陣 白虎隊が出陣の命を受けた場所へ
会津若松駅から「あかべぇ」に乗ること約5分。「飯盛山下」で下車し、バス通りから横に入ると、左手に古民家が見えてきます。
最初の白虎隊ゆかりの地は、国重要指定文化財に指定されている「旧滝沢本陣(きゅうたきざわほんじん)横山家住宅」です。 当初は豪農の住居として構えていた住宅ですが、参勤交代や領内巡視の際の、歴代藩主の休憩所の顔も持ち合わせており、時代の移り変わりとともに、用途は変化していきました。幕末の戊辰戦争の際には、会津藩の大本営とされていたそうです。
会津藩の大本営とされた理由は、会津戦争の際に、城下に進軍してくる西軍を、戸ノ口原で食い止める為、会津藩主である松平容保がそこに出張って指揮をとったからだそうです。白虎隊はここ、旧滝沢本陣で戸ノ口原戦場出陣の命を受けました。
藩主の容保はどんな思いで白虎隊士に出陣を告げたのでしょうか。
建物自体は、当時のまま残されていました。さっそく靴を脱いで上がります。
内部には、当時使われていた物が多く残されていたり、心落ち着く日本庭園も綺麗に残されていました。この場所を残していこうとする方々の強い思いの表れに違いありません。
柱などには、会津戦争の際に着けられた刀傷と銃弾跡があります。生々しいですが、この建物が紡ぐ物語の一つであることも事実です。
現在では穏やかな時間が流れる、旧滝沢本陣。戊辰戦争中、ここに訪れた会津藩士たちや白虎隊には、この庭はどう映ったのだろう、と思わず考えてしまいました。当時のまま残されているからこそ感じることのできる独特の雰囲気を、ぜひ感じてみてください。
所在地 :〒965-0003 福島県会津若松市一箕町滝沢122
出陣から敗北、鶴ヶ城が見える飯盛山へ向かった経緯とは
【飯盛山と白虎隊の歴史】
旧滝沢本陣にて戸ノ口原の戦場に出陣の命を受けた白虎隊。出陣の理由は新政府軍を食い止めるための援軍でした。会津戦争時、怒涛の勢いで城下の目前に殺到した新政府軍に、旧幕府軍は、戦略上非常に重要なポイントである十六橋を奪われてしまいました。旧幕府軍は、藩との境い目である戸ノ口原にて敵を食い止めるしかなくなり、急遽、予備軍だった白虎隊も集合を命じられたという背景があります。
その後、白虎隊も加えた旧幕府軍は、進入してきた新政府軍と激戦を繰り広げましたが、新兵器を多く持つ新政府軍の勢力は強く、多くの兵が死傷した旧幕府軍は次々と退却します。本体とはぐれた白虎士中二番隊の20名は、身心が疲れ果てた状態で、ただ一つの希望である鶴ヶ城を目指しました。白虎隊の20名は、鶴ヶ城へ向かうために、近道である戸ノ口堰洞穴を抜けて飯盛山に辿り着いたと言われいます。
白虎隊が通った飯盛山の「戸ノ口堰」へ
続いて向かった白虎隊ゆかりの地は飯盛山です。会津若松駅からは「あかべぇ」「ハイカラさん」に乗り約5分。「飯盛山下(いいもりやました)」で下車します。飯盛山は、会津若松市街の東2kmにあり、城下町を一望に見渡す小高い山です。
大通り沿いを少し歩くと、お土産屋さんが並ぶ飯盛山入り口へと到着しました。そのまま緩やかな坂を上っていき、緑生い茂る中左手に見えるのが戸ノ口堰(とのくちせき)です。
【白虎隊が進んだ戸ノ口堰】
戸ノ口堰は元々、猪苗代湖から会津の城下町へと水を引くために掘られたものです。白虎隊士たちは主君の城である鶴ヶ城の安否を確かめたいという一心の想いで冷たい水が容赦なく流れ体力を奪ってくる洞穴の中を、傷ついた身体を屈め、足を取られながら進んでいったのでしょうか。
所在地 : 福島県会津若松市一箕町八幡弁天下
白虎隊士の魂が眠る白虎隊十九士の墓 隊士の最期の想いに触れる
戸ノ口堰から右手に進み、さらに急な階段を上っていくと飯盛山の中腹部分にたどり着きます。ここは白虎隊自刃の地。
【燃える鶴ヶ城を見た白虎隊】
戸ノ口原の戦場で、本隊とはぐれてしまった20名の白虎隊士は、ここから燃える鶴ヶ城の城下町を見たそうです。
隊士の間では城に戻り戦う、敵陣に斬り込み一人でも多く道連れにする、などの激論が交わされたそうですが、結果として、隊士達が選んだのは自刃でした。切り込んだ際に敵に捕らえられ生き恥をさらすのであれば武士として潔く死を選ぶ、という結論だったのでしょう。9月22日に降伏する約1か月前、8月23日のことでした。
白虎隊20名のうち、1名のみ蘇生し、助かりました。そのため、19名の隊士がここ「白虎隊十九士の墓」で眠ります。
城が黒煙に包まれている様子を隊士達が目にしたとき、実際には、城は落ちてはいませんでした。隊士達が見たのは、鶴ヶ城周辺の武家屋敷から昇っていた黒煙だと言われているそうです。自刃の地より隊士たちが見たであろう方角を見ると、鶴ヶ城は遠く肉眼ではほぼ見えません。彼らの最期の想いを、叫びを想像すると、言葉が出てきませんでした。
【白虎隊十九士の墓に手を合わせる】
自害の地から少し下ると、そこには白虎隊十九士の墓が鶴ヶ城の方向を向いて並んでいました。
ここからは、神聖な場所であるため飲食が禁止されています。このように、立て看板も建てられていますので、ご注意ください。
左手にあるのが白虎隊十九士の墓。大きな木々の下で、彼らの魂は佇んでいます。決して派手ではありませんが、目前で一度、思わず足を止めてしまいました。手を合わせて、中に入ります。
19の墓石は整然と並び、鶴ヶ城の方へと向いていました。
ふもとと違い、凛とした空気が張り詰める飯盛山。白虎隊のお墓には御線香の煙が絶えることはありません。ぜひ白虎隊士の想いを感じに訪れてみてください。
所在地 : 福島県会津若松市一箕町八幡弁天下
白虎隊士のかつての遊び場?隊士を想って残された不思議なさざえ堂へ
【さざえ堂とは】
戸ノ口堰から白虎隊十九士の墓へ向かう途中にある「さざえ堂」。ちょうど墓の下に位置します。さざえ堂とは、正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」。国の指定重要文化財であり、1796年に建立されました。
当時の飯盛山にあった正宗寺(しょうそうじ)の住職、郁堂(いくどう)が考案した建物です。独特な2重螺旋のスロープは、上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式になっています。スロープにそって、西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれています。
正面からはもちろんですが、横から見てもわかるこの迫力。
独特な2重螺旋のスロープを上り、下りますが、それらは全く別の通路です。これは、世界的にも珍しい建築様式であり、建築史上特異な存在として認められています。
中は薄暗く、最上階に到着しても最上階とは思えない不思議な空間です。
天井も、普段はなかなか見ないようなものになっており、歴史の重みを感じました。
下りのスロープも、通る際は気を付けましょう。
スロープ途中の絵は興味深いものばかりです。
最後には小さな神坐もあり、中にはきれいな千羽鶴。今でも欠かさずお供えされていることが分かります。
【白虎隊ゆかりの地さざえ堂】
白虎隊が敗走する際、ここ飯盛山を目指したのはある理由があると言われています。
白虎隊士となる前の少年たちは、ここでよく遊んでいたり、さざえ堂の前を通り道として使っていました。敗走する際に、その記憶がふとよみがえった、というわけです。かつての楽しい思い出の場所が一変し、最期の地となってしまったのです。
外観から内観まで、とにかく不思議な空間のさざえ堂。少年たちが夢中になって遊んだのも納得です。ぜひ忘れずに、お立ち寄りください。
所在地 : 〒965-0003 福島県会津若松市一箕町八幡弁天下1404
白虎隊士仮埋葬地の地 妙國寺
会津若松駅からの「あかべぇ」もしくは「ハイカラさん」に約3分乗車し、会津短大南口で下車。住宅街を約10分進むと、「白虎隊士自刀仮埋葬地 妙国寺」と書かれた看板が目に入ります。この看板の通りに進むと、妙國寺(みょうこくじ)が見えてきました。
妙國寺は、元々日蓮宗のお寺ですが、白虎隊の仮埋葬地と戊辰戦争後の松平容保親子の謹慎場所として、現在は知られています。
白虎隊士の自刃後、その遺体の埋葬は許されず、放置されたままとなっていました。吉田伊惣治という村人が、それを哀れに思い、こっそりとここで仮埋葬をしたと言われています。仮埋葬を密告する者がいたそうで、吉田伊惣治は捕えられ、その後遺体は掘り起こされてしまいます。白虎隊士の屍は、その後半年ほどまた野ざらしにされました。
入口から右に曲がると見えてくる白虎隊士埋葬墓地の石碑。その奥に、彼らの墓碑があります。
緑に囲まれながら見える墓碑の存在感は圧倒的である一方で、すぐ向かいにはアパートがあり、なんだかとても異質な空間です。思わず手を合わさずにはいられません。
バス停からは少し歩きますが、白虎隊士に思いを馳せるには、欠かせない場所となっています。ちなみに、今回旅したスポットには周遊バスを使います。1日乗車券のご購入がおすすめ!
所在地:〒965-0003 福島県会津若松市一箕町八幡墓料78
白虎隊ゆかりの地それぞれには、隊士の想いだけではなく、これからも歴史を伝えていこうという、地元の人々の想いも込められていました。いま平和な時代だからこそ、命の大切さや、自身の生きる意味を考える機会は減っているように感じます。改めて生きる意味というものを感じさせてくれる場所。ぜひ一度訪れてみてください。