竹原めぐりに欠かせない!町のシンボル普明閣で広島竹原の町を一望
日本の伝統的な商家建築物とともに、複数の寺院や辻堂などによって美しい町並みを形成している広島県・竹原市。
町のシンボルに相応しく、堂々たる存在感を放つ西方寺の普明閣を訪れ、竹原の魅力を紹介します。
カメラ必携の名所へ、さっそく出発です!
この記事の目次
歴史の階段を駆けあがる!竹原景観の代表~普明閣~が建つ西方寺へ
JR竹原駅より徒歩約15分、町並み保存地区の本町通りの中程に高台へつづく階段が見えてきます。
階段を上りきると、「西方寺」(さいほうじ)に到着です。
西方寺は、もともと田中町の地蔵堂の隣にある禅寺でした。
現在の西方寺の地には、妙法寺(みょうほうじ)がありましたが、1602年の火災で焼失し、翌年に浄土宗に改宗したそうです。
本堂、楼鐘、法界地蔵堂などがある境内は、静かで心が落ち着く空間でした。
山門からは、瓦屋根を間近に、竹原の商家木造建築物を楽しむこともできます。
本堂にお詣りした後は、境内に向かって右手の方へ進んでみましょう。
竹原の高台を目指して 朱色のお堂が美しい名所~普明閣~を堪能
境内を進むと、「守護堂」があります。
普段は見ることはできませんが、中には県重要文化財である「木造十一面観音立像」が安置されていました。
守護堂の左手の階段を上っていくと、竹原の町のシンボル「普明閣」(ふめいかく)に目を奪われます。
1758年に、西方寺の観音堂として建築された普明閣。
今は、守護堂に収めされている木造十一面観音立像が祀られていました。
普明閣は、小早川隆景の創建と伝えられています。
竹原の町のどこからでも、見上げることができる町の人々にとっても身近な存在です。
観音様を祀るために、これだけ立派な観音堂がつくられたことを考えると、信仰の深さを感じました。
せっかく高台まで上がってきたので、普明閣の舞台まで行ってみましょう!
普明閣から見る竹原歴史の跡 塩田にて製塩業として発展した竹原
京都にある、清水寺(きよみずでら)に似せて作られた舞台の上に上がってみました。
江戸時代から変わることなく、時を刻んできた竹原の町並みを一望できる、とても贅沢な場所です。
見下ろす現在の市街地一帯は、元竹原湾で海が深く入り込んでいました。
賀茂川が吐き出す土砂により、次第に干潟となり、湾としての機能が低下したことにより、南部にある下市に河口兼市場の機能が転移したといわれています。
江戸時代に入ると、広島藩により新田開発が行われ、竹原では古新開・大新開が開かれました。
しかし、賀茂川の河口付近は土地が低く、塩分の排水がうまくできず、田畑として使用できなかったそうです。
その時に播州赤穂より入浜式塩田の技術を取り入れたとされます。
塩田により大きく繁栄した竹原は、塩の代名詞と言われるまでになりました。
こうした発展により1644年には、下市に町年寄が設置され、町制が布かれ、本町通りの南端へと市街地が拡大し現在の重伝建の街並みが形成されます。
ここからは、切妻や入母屋などの屋根の形、妻入りや平入の屋根が入り混じった変化に富む家屋の背が広がりとても美しい情景を見ることができます。
目の前の景色が出来上がるまでの、歴史の変遷を想像するだけでも感慨深いものがありました。
竹原を訪れた際は、是非、西方寺と普明閣を訪れてみてください。
所在地 : 広島県竹原市本町3-10-44
町並みの中を歩いたり、普明閣の舞台から町並みを見渡したり、見る角度によって豊かな表情を楽しめる竹原。
今回、竹原を訪れてみて歴史を知ることがより楽しくなりました。
西方寺以外にも、町並み地区内にある多数の寺院や辻堂を訪れて、お気に入りのスポットを探してみてください。