志賀直哉が代表作「暗夜行路」を完成させた志賀直哉旧居を観光
奈良観光の入口ならまちの隣にある高畑町。
高畑町は旧大乗院庭園や浮見堂といった自然をゆっくりと楽しめる場所が知られていますが、今回は文化芸術を感じるスポット「志賀直哉旧宅」へ。「暗夜行路」や「城崎にて」など近代に数々の作品を生み出した文豪志賀直哉の暮らしとはいったいどのようなものだったのでしょうか。
この記事の目次
志賀直哉の人生と生涯をかけて書いた「暗夜行路」とは
【志賀直哉とは?】
近代文学の最高峰とも称される「暗夜行路」の著者志賀直哉。
志賀は、明治から昭和にかけて白樺派の小説家として活躍しました。家柄の良い家系の出身です。宮城県石巻市に1883年2月20日に生まれ、3歳で上京し、祖父母に育てられています。
家柄が良いように、学歴も良く、学習院初等科から東京帝国大学英文科に入学し国文科に移り、やがて大学を中退しています。志賀と同じく小説家である武者小路実篤とは学習院時代からの友人で、1910年に一緒に『白樺』という文芸雑誌を創刊しました。
そうして小説家の一歩を踏み出し、やがて 蜂や鼠を観察しながら自分の生と死とを省察した 『城の崎にて』 などの数々の人気作品を書きました。
【志賀直哉唯一の長編小説、暗夜行路】
17年をかけて執筆をした作品です。主人公は作者である志賀直哉といわれています。度重なる男女関係の不幸があり、最期は大自然の中で心を浄化していきます。彼自身の暗夜行路が終わりをつげ、物語は終焉に向かいます。
そうした作品を自身をモデルにし、さまざまな葛藤の中で書き上げた志賀はどんな風にすごしていたのでしょうか。また暗夜行路を書き上げた場所は今回訪れる「志賀直哉旧宅」です。書き上げた瞬間どんな景色を見たのでしょうか。さっそく歴史旅へ出発です。
奈良県高畑町にある志賀直哉旧宅 自ら設計を手掛けた旧宅の魅力とは
志賀直哉は生涯を通して、26回も引越しをしています。こちらの高畑町にある旧居は志賀が1929年から約9年間過ごしていた場所です。
立派な土壁が旧居を覆っているように見えますが、所々に茶色くなっている部分があります。茶色の部分は志賀が住んでいた頃から約100年の歴史を重ねた土壁。現在なかなか目にすることのない土壁。まるで壁が生きているようで自然の温かみを感じます。
志賀は宮城県石巻市で生まれてから、父との不和や自身の療養などで長く居を構えることなく点々と移動し続ける人生を送りました。
1915年千葉県我孫子で一度落ち着き、この時期に「城の崎にて」、「和解」といった作品を書き上げています。
しかしスランプに陥り京都へ、そして友人からの誘いもあって奈良へと移り住んだそうです。
建物は数寄屋造りの和風の様式に少し洋風のテイストも取り入れた、当時としては画期的な建築であったと言われています。
なんと設計者は志賀自らが務めました。代表作「暗夜行路」の結末を描くのに最高の舞台を自ら創り出したのかもしれませんね。
志賀直哉のこだわりが広がる高畑町の旧宅内で必ず見るべき2部屋
中はかなり広く、志賀直哉ならではの空間が広がります。
特徴的なのが「サンルーム」と呼ばれる部屋。サンルームは約27平米の広さにガラス張りの窓が開放的で、文人や画家が集まる交流の場として使われていました。その交流の場をやがて「高畑サロン」と呼ぶようなったそうです。椅子に座って、ここで志賀や武者小路実篤など近代文学を代表する人々が熱く芸術の討論を交わしていたと思うと胸が熱くなります。
そして小説を書くための書斎もお忘れなく。書斎は一階と二階にそれぞれあり、代表作「暗夜行路」を書いたとされるのが二階の書斎です。一階の書斎は当時の写真から本が大量に積み上げられていた様子がわかっています。日本文学や外国文学にとどまらず、古美術にも関心を持っていた志賀。愛読していた本に囲まれて、心落ち着いて執筆活動に励んだことでしょう。
他にも小林多喜二が泊まったとされる客室や、志賀の子供への愛情を感じる子供部屋など見どころがまだまだたくさんあります。
ぜひ志賀直哉の旧居で文豪の暮らしに思いを馳せてみてください。
旧宅から見る、志賀直哉が小説家として見ていた景色をめぐる旅はいかがでしたか。
小説家として名を馳せた志賀ですが、旧宅の細やかな造形や部屋の造りを見ると芸術家としての一面を知ることができます。
ぜひ当時の様子を想像しながら高畑サロンの雰囲気を楽しんでみてください。