安土桃山時代の邸宅・城郭 京都市上京区に残る聚楽第跡を巡る旅
1595年秀次が謀反の疑いで追放されたと同時に破却されてしまった聚楽第(じゅらくてい)。
しかし、かつての名残は消えません。
現在京都・上京区の地に残る聚楽第跡を巡る旅をご紹介いたします。
京都駅から市バスを利用し「千本中立売」下車後、中立売通を東へ進むと2つの聚楽第跡にたどり着きます。
この記事の目次
豊臣秀吉建立の聚楽第の跡は何処へ?! 現代に残る京の町の石碑
聚楽第とは安土桃山時代、平安京大内裏旧跡に関白になった豊臣秀吉が建てた政庁兼邸宅のことです。
1586年(天正14年)2月に着工され、翌年9月に完成しました。
華麗で壮大だったといわれるこの城郭風の政庁兼邸宅は、東西に600メートル、南北に700メートルと二条城より一回り大きな規模で、豊臣秀吉の栄華の象徴であるといえるでしょう。
しかし、1595年(文禄4年)秀吉は秀次を謀反の疑いで高野山へ追放し、それと同時に聚楽第を徹底的に破却してしまいました。
竣工後わずか8年で取り壊されてしまったため、聚楽第には不明な点が多いそうです。
そんな聚楽第跡が石碑として残っているのが現在の京都・上京区です。
この聚楽第跡は、かつて聚楽第が築かれたときは東堀でした。
1922年その東堀の跡から聚楽第の屋敷に葺かれていた金箔瓦が見つかり、その場所にこの石碑が建てられたそうです。
現在見つかった金箔瓦は国の重要文化財に指定され、京都府埋蔵文化財調査研究センターへ保管されています。
さらにここから西へ少し進むともう一つの聚楽第跡、聚楽第本丸西濠跡へもたどり着くことができます。
聚楽第東堀跡と聚楽第本丸西濠跡どちらも人通や車通りの多い大きな通りの傍らに残っていたことはとても意外でした。
ただ、聚楽第はかつて豊臣秀吉の栄華の象徴だったことを考えてみると聚楽第跡周辺がにぎわっていることにも納得でき、改めて秀吉の偉大さを感じました。
かつての聚楽第の裏門は上京区にあり! 立派な妙覚寺大門に感動
聚楽第跡から北へ進むと妙覚寺(みょうかくじ)というお寺があります。
聚楽第跡からはバスを乗り継いでもいいですが、20分ほどで歩ける距離なので徒歩で行かれるのもオススメします。
妙覚寺は京都日蓮宗名刹三具山および京都十六山のひとつで、最初は四条大宮にあり、その後二条衣棚に移され、豊臣秀吉の京都都市整理によって現在のこの地に移転されたそうです。
注目したいのはこの妙覚寺の大門がかつての聚楽第の裏門だったと言われていることです。
残っている記録によると、豊臣秀吉が1590年(天正18年)に建てた聚楽第の裏門であったものを1663年(寛文3年)現在の地に移建されたものだとされています。
この妙覚寺大門の前に実際立ってみるとその重厚さを肌で感じることが出来ました。
それだけ立派な門にもかかわらず、使われている木がところどころ欠けていたり、裂けていたりするところには深い歴史を感じさせられました。
この妙覚寺大門は安土桃山時代の建築であることは間違いなく、数少ない謎多き聚楽第の遺構なのです。
城門特有の両潜りの扉が取り付けられており、梁の上部には伏兵のできるように空虚がつくられているのはとてもおもしろいつくりだそうです。
上京区松林寺境内に残る 豊臣秀吉栄華の証 聚楽第の南外堀濠跡!
妙覚寺とは反対に聚楽第跡から南へ進むと松林寺というお寺が見えてきます。
聚楽第跡からは徒歩約10分程度です。
通称「やそ寺」と呼ばれているこのお寺は、開基清印が重病の母の回復を祈願すると薬師如来が現れ、婦人病や安産に効く秘薬の処方を伝授されたというお話に由来しているそうです。
正式名称は「松林寺」で、このお寺はかつての聚楽第の南外堀跡だと推定されています。
そのため、松林寺前を通っている新出水通りは北にある出水通りより1.5メートルほど低い位置にあります。
さらに松林寺の境内は新出水通りからさらに1メートルほど下がった地点に建てられており、この付近がかつての聚楽第の外濠があったことを物語っています。
実際に松林寺の門をくぐり階段を下りて境内に入ると1メートルという高さを実感することが出来ました。普段1メートルという高さはそんなに意識することもないのですが、目の当たりにすると思っているよりも高く、外敵から守るための堀には有効的だったのだろうと思いました。
この地もまた数少ない聚楽第の遺構なのです。
竣工後わずか8年で取り壊されてしまい現在もとても謎が多い聚楽第。
そんな聚楽第が実際に存在していたことを感じてもらえるだろう聚楽第跡を巡る旅をご紹介いたしました。
ぜひ徒歩で巡り、かつての聚楽第の大きさを身をもって感じてみてください。